アッツ島の戦い | |
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ファイル:AttuJapaneseArtillery1.jpg アッツ島を守る日本軍砲兵隊 | |
戦争:太平洋戦争 / 大東亜戦争 | |
年月日:1943年5月12日 - 5月29日 | |
場所:アッツ島、アメリカ | |
結果:アメリカ軍の勝利 日本軍守備隊玉砕 | |
交戦勢力 | |
ファイル:Flag of Japan.svg大日本帝国 | ファイル:Flag of the United States.svgアメリカ合衆国 |
指揮官 | |
山崎保代陸軍大佐 | キンケイド海軍少将 |
戦力 | |
2,650 | 11,000 |
損害 | |
戦死 2,351 生存 28 |
戦死 600 戦傷 1200 |
アッツ島の戦い(アッツとうのたたかい、Battle of Attu)は、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘である。山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉砕した。
背景[]
日本軍は1942年(昭和17年)6月にミッドウェー作戦の陽動作戦としてアリューシャン列島のアッツ島をキスカ島と共に攻略、占領して「熱田島」と改称した。アッツ島には第7師団の穂積部隊約1,000名を配置したが、アッツ島部隊はアメリカ軍がキスカ島に上陸するという情報を受け、9月18日にキスカ島に移転した。しかしアッツ島を無人にするわけにもいかず、アメリカ軍の空襲に遭いながらも米川部隊2,650名が進出してアッツ島守備隊となり、飛行場と陣地の建設を開始した。
1943年になると、アメリカ軍はアッツ島への圧力を強め、時折建設中の飛行場へ空襲や艦砲射撃を加えており、アメリカ軍の上陸は間近と予想された。4月18日に守備隊司令官として山崎保代大佐が着任した。
経過[]
1943年5月5日、ロックウェル少将が率いる、戦艦「ネヴァダ」「ペンシルベニア」「アイダホ」、護衛空母「ナッソー」などからなる攻略部隊、第51任務部隊がアラスカのコールド湾を出港した。上陸部隊はA・E・ブラウン陸軍少将が指揮する陸軍第7師団1万1000名であった。アメリカ軍の作戦名は「ランドクラブ作戦 (Operation Landcrab)」という。
上陸部隊は洋上で天候回復を待って、5月12日に上陸を開始した。主力は霧に紛れて北海湾と旭湾に上陸し、抵抗を受けることなく海岸に橋頭堡を築くことに成功した。日本軍は上陸したアメリカ軍を程なく発見し、迎撃体制についた。アメリカ軍は戦艦2隻でアッツ島を砲撃したが有効な損害を与えられなかった。
1日目は両軍とも散発的な戦闘を行っただけであった。2日目の5月13日に北海湾から上陸したアメリカ軍北部隊は周辺を一望できる芝台にある日本軍の陣地を包囲し、一個中隊に陣地を攻撃させた。日本軍はすかさず機関銃と小銃射撃でこれを撃退したが、陣地の位置が露見し、野砲と艦砲の激しい砲撃と艦上機からの銃爆撃を浴びせられ、たこつぼと塹壕だけの陣地は大きな損害を受け100名前後の戦死者が出るにいたって守備隊は芝台陣地を放棄し退却した。芝台を奪われた日本軍は舌形台に防御の拠点を移し、高地を巡って15日まで米軍と激しい戦闘を行った。日本軍は高射砲を水平射撃してアメリカ軍を砲撃したが、精度は低かった。
一方、旭湾に上陸したアメリカ軍南部隊も前進を開始したが、山地に築かれた日本軍の陣地にぶつかり、三方向からの十字砲火を受け第17連隊長アーノル大佐が戦死し混乱状態に陥った。南部隊は臥牛山を抜けて北部隊と合流すべく臥牛山の日本軍陣地に一個大隊で攻撃を仕掛けたが、高地から平原を見下ろす日本軍は迫撃砲や機銃などでこれを防ぎ、アメリカ軍を海岸まで後退させた。
日本海軍はキスカ島から潜水艦「伊34」「伊31」「伊35」を派遣した。「伊31」は米戦艦「ペンシルベニア」を雷撃したが、命中弾を得ることはできなかった。
各地で日本軍はアメリカ軍の攻撃を防いでいたが、15日にはアメリカ軍の砲爆撃によってアメリカ軍北部隊を押さえていた日本陣地が損害を受け、16日アメリカ軍はこの機を逃さずに部隊を前進させた。北部の日本軍は損害を受け後退。山崎司令官は戦線の縮小を命じた。同じく南部の陣地も砲爆撃を受け、これにあわせてアメリカ軍は戦車5両を突入させ一気に突破を図り、南部の日本軍は戦線縮小の命令を受け後方の陣地に転進した。18日からアメリカ軍は勢いに乗り縮小された日本軍の戦線に苛烈な攻撃を加えたが、日本軍の各陣地は激しく抵抗し寡兵を持ってよくアメリカ軍の攻撃を撃退した。特に荒井峠の林中隊は一個小隊でアメリカ軍二個中隊の攻撃を防いだ。
アメリカ軍の砲爆撃は正確で威力が高く、各地の日本軍は次第に追い詰められ、21日に戦線を突破された。日本軍は大半の砲を失い食料はつきかけていた。兵力は1,000名前後までに減り、各地の日本軍はアメリカ軍の攻撃に対してなおも激しい抵抗を続け白兵戦となったが、28日までにほとんどの兵力が失われ陣地は壊滅した。翌29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決し、山崎司令官は生存者に本部前に集まるように命令した。各将兵の労を労った後に「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す」を最後に打電。生き残った傷だらけの最後の日本兵300名は山崎保代司令官を陣頭に最後の突撃を行なう。この意表を突いた突撃によってアメリカ軍は混乱に陥り、日本軍は次々とアメリカ軍陣地を突破する。日本軍の進撃は止まらず、遂には第7師団本部付近にまで肉薄する事態となるが、雀ヶ丘で猛反撃を受け全滅。最後までアメリカ軍の降伏勧告を拒否して玉砕した。なおこの突撃中、山崎司令官は終始、陣頭で指揮を執っていた事が両軍によって確認されている。
影響[]
日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は27名で生存率は1パーセントに過ぎなかった。アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1,200名であった。アッツ島の喪失によってよりアメリカ本土側に近いキスカ島守備隊は取り残された形となったが、日本軍はキスカ島撤退作戦を実施し、木村昌福少将率いる救援艦隊によって脱出・撤退に成功した。
アッツ守備隊玉砕の報告は5月30日に昭和天皇に伝えられた。その際に次のようなエピソードがあったとされる。 昭和天皇は報告をした杉山元参謀総長へ「最後まで良くやった。このことを伝えよ」と命令した。杉山はすかさず「玉砕して打電しても受け手が居ない」と言った。これに対して昭和天皇は「それでもよいから電波を出してやれ」と返答した、という[1]。 しかし、5月30日の陸軍少将眞田穣一郎(参謀本部第一部長、陸軍省軍務局長)の日記には「陛下からはご下問も何もなし」と記録されている。眞田第一部長はこの上奏を起案した瀬島龍三の直属長官であり、瀬島は杉山参謀総長とともに車で宮中に赴いている。もし上記のような命令がされていたのであれば、かならず上司である眞田にも報告があったはずである。よって、上記の昭和天皇とのやり取りが創作ではないかという指摘もある[2]。
関連項目[]
- 辰口信夫 - 日本軍の軍医であり戦闘を記録した日記が残されている。
- 藤田嗣治 - 日本軍の要請により、戦争画『アッツ島玉砕』を描いた。
脚注[]
- ↑ 森山康平『図説・玉砕の戦場』河出書房新社、2004年、ISBN 4-309-76045-7
- ↑ このエピソードの出典は瀬島龍三の回顧録である場合が多い。
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