キスカ島撤退作戦(キスカとうてったいさくせん)とは、昭和18年7月29日に行われた日本軍の北部太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊撤収作戦のこと。キスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれる。
背景[]
昭和17年6月にミッドウェー作戦の支作戦として行われたアッツ島攻略作戦により日本軍の支配下に置かれたキスカ島だったが、ここに日本軍の拠点があることはアメリカ本土への脅威になった。アメリカ軍は反攻作戦を開始すると南方と共にこの方面も優先的に攻略を始めた。一方で日本軍は最初この地域を余り重視せず、申し訳程度の守備隊と偵察機部隊しか配置しなかった。しかし、アメリカ軍の空襲及び日本輸送船への攻撃は激しく、守備兵力の増強に迫られた日本軍は徐々に兵力を補強しようとするが、アッツ島沖海戦を代表とするアメリカ軍の阻止攻撃に遭いなかなか上手くいかなかった。[1]
そして昭和18年5月12日、アメリカ軍はアッツ島に上陸、攻略作戦を本格化させた(アッツ島の戦い)。兵力差は米軍の11,000人に対して日本軍は2,650人と4分の1で、補給も増援も見込めない日本軍は必死の抵抗を続けたが、5月30日司令官山崎保代陸軍大佐以下残存兵約300名の身命を投げうった決死の突撃(バンザイ突撃)により玉砕した。これによりアッツ島は陥落しキスカ島にいる守備隊(陸海軍あわせて6,000名余)は完全に孤立してしまった。キスカ島守備隊がアッツ島守備隊より多いのは、キスカ島のほうがアメリカ本土に近いために先に攻略してくるのはこちらだろうと日本軍が読んで、兵力を重点配置した為である。しかし、アッツ島が陥落した状態ではアッツ島とアメリカ軍飛行場のあったアムチトカ島に挟まれた制海・制空権を完全にアメリカ軍に握られた戦域に孤立無援となり、退くに退けず、待つのは死か降伏かという状態になってしまった。[1]
大本営でもこの状況は把握していたが、アッツ島にアメリカ軍が上陸した時点で増援を送ることは地理的にも兵力的にもほぼ不可能に近く、まだ守備隊が戦っていた5月20日にはアリューシャン方面の放棄が決定。まだ敵軍が上陸していなかったキスカ島は守備隊を撤退させることになった。アッツ島も守備隊の撤退が提案はされたが陸海軍間で調整がつかず結局海軍の反対で断念、代わりにキスカ島の守備隊撤退に重点を絞って作戦計画が練られることとなった。
作戦名は日本軍が撤退作戦のときに必ずつける「"ケ"号作戦」であった(「ケ」は「乾坤一擲」を意味する)。[1]
第一期作戦[]
撤退作戦においては本来、ガダルカナル島撤退作戦のように駆逐艦などの高速、軽艦艇により夜陰に乗じて撤退を行うのが最も効率のよい方法であったが、水上艦隊による撤退作戦に日本海軍は消極的だった。最前線での輸送、撤退任務に駆逐艦を投入すればソロモン戦の二の舞となりかねず、またソロモン方面の戦いで海軍は駆逐艦のかなりの数を失っており、これ以上駆逐艦を損耗させることは避けたかったからである。そこで、潜水艦による守備隊への補給及び撤退作戦を立案してこれを実行した[2]。
参加兵力は第一潜水戦隊(司令官:古宇田武郎少将)の潜水艦15隻であった[2]。
1943年6月上旬に2回の輸送作戦が行われ、傷病兵等約800名が後送され、また弾薬125トン、糧食100トンの守備隊への輸送に成功した。しかしレーダーを始めとする米軍の哨戒網は厳重であり、この作戦により第1回輸送作戦で「伊二四」、第2回輸送作戦で隊司令玉木留次郎大佐座乗の「伊七」と「伊九」を喪ってしまった。成果の割には損害が多く、また効率も悪かった為に潜水艦による撤退、補給作戦は2回で打ち切られ、結局水上艦艇による撤退作戦に切り替えられることとなる[2]。
第二期作戦[]
作戦準備[]
潜水艦による撤退作戦が不調に終わったために立案された水雷戦隊による撤退作戦ではあったが、正面から堂々と作戦を行っていたのではキスカ島近辺で警戒任務に当たっているアメリカ艦隊との戦闘は避けられない。そこでこの地方特有の濃霧に紛れて高速でキスカ湾に突入、素早く守備隊を収容した後に離脱を図る、という計画が立てられた。
この作戦の成否を決める要素は2つあった。
- 視界ゼロに近い濃霧がキスカ島近辺に発生していること
- 日本艦隊に電探及び逆探を装備した艦艇がいること
まず第一の要素の天候であるがこれは濃霧が発生していれば空襲を受けずに済むからであった。キスカ島のすぐ東側のアムチトカ島には先述したように米軍の航空基地があり、B-25などの爆撃機がいたために上空援護のない撤退部隊が空襲を受ければ全滅もあり得た。しかし、この当時濃霧の中で空襲をかけられる航空機は世界中どこを探してもなかった。このキスカ島の天候状況は撤収部隊の死命を制するといっていい。そこで第一次作戦に参加した潜水艦の中から数隻を抽出して撤収部隊に先行させてキスカ島近海に配備し、この地域の気象情報を通報させることとなった。
次に、日本艦隊には当時まだ巡洋艦・駆逐艦クラスで電探を装備した艦はほとんどなかった。第一期作戦での失敗も潜水艦が濃霧の中を浮上航行していたところを敵艦にレーダーで発見され、レーダー射撃を受けて撃沈されたり損傷したりしたためであった。第一の条件である濃霧は敵の空襲から日本艦隊を守ってはくれるが、同時に日本軍の長所である肉眼による見張り能力を奪う。これを補うために逆探と電探を必要としたのである。これに関しては実行部隊である第一水雷戦隊(一水戦)の司令官に着任したばかりの木村昌福少将から特に要望が出され、これを受けた連合艦隊は就役したばかりの新鋭高速駆逐艦「島風」を配備する。この艦は就役当時から二二号電探と三式超短波受信機(逆探)を搭載しており、配備を聞いた実施部隊は大喜びであったという。また、仮に肉眼でアメリカ軍に発見されたとしても、アメリカ艦と誤認するように「阿武隈」の3本煙突の1本を白く塗りつぶしたり、「響」に偽装煙突をつけたりと各艦とも偽装工作を万全にしての出撃であった。
参加兵力は次のとおり。(撤収作戦指揮官:木村昌福少将)
- 第一水雷戦隊(司令官:木村昌福少将)
- 軽巡 「阿武隈」
- 駆逐艦 「島風」 「響」 「朝雲」 「薄雲」 「夕雲」 「長波」 「秋雲」 「風雲」 「若葉」 「初霜」 「五月雨」
- 海防艦 「国後」
- 補給船 「日本丸」
- 第一潜水戦隊 [3]
- 第二十一戦隊 [4]
- 軽巡 「多摩」「木曾」
出撃、そして反転、帰投[]
こうしてキスカ島守備隊撤退作戦「ケ」号作戦は1943年6月29日発動された。根拠地、幌筵を最初に出撃したのは気象通報に従事する潜水艦部隊であった。水上部隊の出撃はそれに遅れること一週間、7月7日、19時30分であった。この部隊の目的はあくまでも"味方守備隊の撤退を隠密裏に行う"というものであったため、アメリカ軍部隊との接触は極力避けるのが方針であった。しかし、万が一にも敵と遭遇した場合に備えて、夜戦の用意も行っていた。
7月10日、アムチトカ島500海里圏外で集結した撤収部隊は一路キスカ島へ向かった。計画では12日が"X日"つまり撤収決行日であった。だがキスカ島に近づくにつれ、霧が晴れてきた為突入を断念、一旦反転して予定日を繰り下げて決行日を13日とした。しかしこの13日も霧が晴れ、翌14、15日と決行したが全て途中で霧が晴れてしまい、突入を断念せざるを得なかった。この慎重にも慎重を期した行動は木村自身がこの年の2月に参加したビスマルク海海戦の敵空襲を受けた経験から来ていると言われる。上空援護のない状態での空襲は水雷戦隊にとって致命傷だということを、木村は嫌というほど知っていたのである。
ここに来て、燃料の残量も少なくなってきたことから木村少将は15日午前8時20分、一旦突入を諦め幌筵へ帰投命令を発した。「帰れば、また来られるからな」と言い残しての命令だったといわれる。こうして撤収部隊は18日に一旦幌筵へ帰投した。 [1]
再出撃[]
手ぶらで根拠地に帰ってきた木村への批判は凄まじく、直属の上官である第5艦隊司令部のみならず、果ては連合艦隊司令部、更に大本営から「何故、突入しなかった!」、「今すぐ作戦を再開しキスカ湾へ突入せよ!」等々轟々たる非難を浴びることとなった。 この批判は、突入しなかった木村の態度から来たものだけではなく、8月になればこの方面の霧が晴れ始めてアメリカ軍の上陸作戦が確実に行われると予想されたこと(つまり、撤収作戦がほぼ不可能になる)、更にこの地域に備蓄していた重油が払底し始めており作戦は後一度きりしか行えないという焦りから来たものでもあった。
しかし、木村はこの批判を意に介せず、濃霧が発生するのをじっと待った。そして7月22日、幌筵の気象台が「7月25日以降、キスカ島周辺に確実に霧が発生する」との予報を出したため、撤収部隊はその日の夜、再出撃したのである。ただし、この出撃に際して「督戦のため」と称して河瀬四郎第5艦隊司令長官以下第5艦隊司令部が「多摩」に座乗、実行部隊に同行したのである。当初は第5艦隊旗艦「那智」で参加予定であったが、燃料不足により「多摩」での出撃となった。
作戦決行当日[]
督戦という名目で一水戦に付いて来た第5艦隊司令部であったが、いざ決行となった7月28日のキスカ島周辺の気象状況は、途中で引き返した第一次作戦時と似たような状況だった。その為、5艦隊司令部は司令官共々、どう判断を下したら良いか判らない状態になり、適切な命令を出せないでいた。これを見かねた多摩航海長の越口少佐は「艦長を呼べ」と近くの伝令に命令する。艦長の神大佐は「ぐずぐずしていたら、突入の時期を失しますよ」と五艦隊司令部に進言する。そこへ1水戦司令部から5艦隊司令部へ信号が届く「本日ノ天佑我ニアリト信ズ適宜反転サレタシ」こうしてキスカ撤退作戦は始まった。
この時の作戦では、艦隊はカムチャツカ半島先端の占守島から北太平洋を一挙に南下、そこからアッツ島南方海上まで東に進路を取り、そこで天候を待った後に機を見てキスカ湾へ北東に進路をとり高速で突入、守備隊を迅速に収容した後に再びアッツ島南方海域まで全速で離脱しその後幌筵に帰投する、というルートで行われた。しかし、幌筵出港時から濃霧が発生しており各艦バラバラでの進撃となってしまった。7月25日には「国後」を除くほとんどの艦艇が集結したものの、翌26日には霧中標的すら見えぬ濃霧の中を航行中に行方不明だった「国後」が突如「阿武隈」の左舷方向に出現。避ける間もなく「国後」は「阿武隈」の左舷中部に衝突、混乱で「初霜」の艦首が「若葉」右舷に衝突、更に弾みで艦尾が「長波」左舷に接触し、損傷が酷かった「若葉」は艦隊を離脱し単独で帰投することとなった。 [1]
奇跡の作戦[]
7月28日、艦隊の気象班が翌29日は濃霧の可能性大との予報を出し、気象観測に出した潜水艦各艦及びキスカ島守備隊からの通報でもそれを裏付けられたため、木村司令官は突入を決意する。
敵艦隊との遭遇を避けるために南西方向から直接突入せずにキスカ湾を西側から迂回して島影に沿いつつ、7月29日午後0時に艦隊はキスカ湾に突入。濃霧の中の突入だったため座礁や衝突の危険があったが、突入直後に一時的に霧が晴れる幸運があった。一方で突入時に旗艦「阿武隈」が敵艦隊発見を報じ直ちに魚雷4本を発射、同じく「島風」も発射し全弾命中したが、目標は敵艦ではなく軍艦に似た形の島であったという。普段より晴れていたとはいえ当時の霧がどれほど濃かったかを示すエピソードである。
艦隊は13時40分に投錨し、ただちに待ち構えていたキスカ島守備隊員約5,200名を大発のピストン輸送によりわずか55分という短時間で迅速に収容。この際使用済の大発は回収せずに自沈させ、陸軍兵士には持っている小銃を投棄させて身軽にしたことも収容時間の短縮に繋がった。守備隊全員を収容後、ただちに艦隊はキスカ湾を全速で離脱。直後からまた深い霧に包まれ空襲圏外まで無事に離脱することができた。
艦隊は7月31日から8月1日にかけて幌筵に全艦無事帰投。気象通報に出した潜水艦もその後全艦無事帰投し、ここに戦史史上極めて珍しい無傷での撤退作戦は完了する。 [1]
アメリカ軍の動き[]
「コテージ作戦」も参照
アメリカ軍は1943年8月15日に予定したキスカ島上陸作戦に向けて着々と準備を進めており、戦艦「ミシシッピー」「アイダホ」を中心とした艦隊で海上封鎖及びキスカ島砲撃を行っていた。
7月23日、アメリカ軍のカタリナ飛行艇がアッツ島南西200海里の地点で7隻の船をレーダー捕捉し、艦隊司令長官トーマス・C・キンケイド中将は日本艦隊とみて直ちに迎撃作戦に移った。しかし、当時、この海域には日本艦船は存在しておらず、これは全くの事実誤認であった。
7月26日、濃霧の中「ミシシッピー」のレーダーが15海里の地点にエコーを捕捉。艦隊各艦からも同様の報告を得たキンケイドは直ちにレーダー射撃を開始させ、約40分後に反応は消失。しかし、不思議なことに重巡「サンフランシスコ」のレーダーにはこの戦いの最初から最後まで全く反応がなかった。これは現在ではレーダーの虚像による誤反応を日本艦隊と見間違えたという説が一般的であり、勿論日本軍にも全く損害は出ておらず、一方的にアメリカ軍が無駄弾をばら撒いただけであった。この際米軍が消費した砲弾は36センチ砲弾118発、20センチ砲弾487発に上ると言われている[2]。なお、この攻撃の際に米艦隊が砲撃データとして発信していた電文は全て日本艦隊に傍受されており、これが平文だったために「米軍は同士討ちをやっている」と日本軍は思ったという。[1]
7月28日(ケ号作戦実行日)、敵艦隊を撃滅したと確信したキンケイドは弾薬補給のため一時艦隊を後退させる。この時、キンケイドはキスカ島に張り付けてあった哨戒用の駆逐艦まで率いて後退してしまった。補給を終わり、封鎖を再開したのが7月30日であった。アメリカ軍のいなくなった7月29日に、日本艦隊が突入し撤退を完了した形になる。[1]
攻撃を再開したアメリカ軍は、航空部隊への対空砲撃、通信所の移転、小兵力移動の報告をパイロットから受け、更なる空爆攻撃を実施した。(後に対空砲撃は空爆による煙幕を誤認。通信所は視界錯覚。小兵力はキツネと判明する。)
8月15日、アメリカ軍は艦艇100隻余りを動員、兵力約34,000名をもってキスカ島に上陸する。艦隊による十分な艦砲射撃を行った後で濃霧の中一斉に上陸を開始したアメリカ軍は、最早存在しない日本軍兵士との戦闘に備えて極度に緊張した状態で進軍した為、各所で同士討ちが発生。死者約100名、負傷者数十名を出してキスカ島攻略を完了した。上陸したアメリカ軍の見たものは、遺棄された数少ない軍需品と数匹の犬だけだった。
また、日本軍は軍医の悪戯で『ペスト患者収容所』と書かれた立て看板を兵舎前に残し、これを見たアメリカ軍は一時パニック状態に陥り、緊急に本国に大量のペスト用ワクチンを発注した。
アメリカの戦史家サミュエル・エリオット・モリソンは『アメリカ海軍作戦史』で「史上最大の最も実戦的な上陸演習であった。」と皮肉っている。[1]
評価[]
この作戦は、玉砕を強いて無慈悲に兵を見捨てる日本軍が、例外的に救援を優先したかのように取り上げられる事が多い。たとえば、同時期より少し以前に行われたガダルカナル撤収作戦(作戦名は同じくケ号作戦であるが「捲土重来」のケ)等に関しても海軍は非常に消極的であった[1]。
実際、この作戦自体が5月20日の大本営におけるアリューシャン方面の対策会議(この会議でアリューシャン方面の放棄が決定)で、陸軍が求めていたアッツ島の救援を断念する代わりに海軍はキスカ島だけは何としても救援する、という陸海軍間での妥協の産物であり[1]、この取引がなければキスカ島も見捨てられていた可能性が高い。ただニューギニア方面での艦船損失が激しくなる中において、北方方面でのアメリカ軍の侵攻を防ごうとすれば、確実にガダルカナルで見られた激しい消耗戦になっていた可能性が高い。兵力の余裕が段々と薄らいでいた時期にもあって、非常に厳しい判断状況に置かれていた。結果としては成功に終わった作戦だったが、北方艦隊が戦力に余裕をもっていたからこそ可能であった作戦でもあった。
しかしながら本質的には、決して降伏を許さないという事において、日本軍の体質は全く同じであった。降伏を許さないという日本軍の方針は愚策であり、勇戦した後の降伏を認めていれば、あえて不利な戦線は見捨てるという選択も行えたのである。降伏を許さないばかりに、何が何でも救援しないといけない義務まで背負い込む事になり、作戦の自由度をそぐ結果になったのである。
救出艦隊の指揮を執った木村少将の戦術指揮には、高い評価が与えられている。特に1度目の出撃で、天候に利が無いと見て、各艦長の突入要請を蹴って反転帰投を決断したことが焦点となる。当時の海軍の状況は切迫しており、戦力として貴重な艦艇を無駄に動かす結果になることや、欠乏していた燃料を浪費してしまうこと、またそれによる上層部や各所からの批判なども当然予想されることであった。
また、活発化しつつある米軍の動きから、反転してしまえば二度と撤退のチャンスがなくなる恐れも充分に考えられた。それでも、作戦成功の可能性が無いと見て反転するという一貫性のある決断力は評価されている。実際、このとき突入を強行していれば、米軍に捕捉・撃滅されていたであろうことは、当時の米軍の展開状況から見ても容易に推察できる。
結果として二度目の出撃で、たまたま米軍が島の包囲を解いた隙を突くことになる。日本に都合のよい偶然が重なったことも事実であるが、木村少将の、霧に身を隠して一気に救出するという一貫した戦術指揮も大きく作用したのである。
尚、戦後この作戦に参加した将兵やキスカ島から撤退した将兵たちは「この作戦の成功はアッツ島の英霊の加護があったと思った」、「(生還出来たのは)天佑神助としか思えなかった」等と述べている。これは偶然とはいえ、作戦遂行中に余りにも日本軍に都合の良い状況が展開したからである。こういったこともこの作戦が「奇跡の作戦」と言われる所以である。
関連項目[]
- 日本映画:太平洋奇跡の作戦 キスカ:1965年東宝
- アニメンタリー 決断
脚注[]
参考文献[]
- 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争』 ISBN 4769820097
- 板倉光馬 『あゝ伊号潜水艦』 ISBN 4769821409
- 阿川弘之 『私記キスカ撤退』 文藝春秋、1971年。
- 将口泰浩 『キスカ 撤退の指揮官』 ISBN 4819110683
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