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ファイル:KatiaMauriceKrafft.jpg
カティア・クラフト
人物情報
誕生 1942年4月17日
フランスの旗 フランス スルツ=オー=ラン
死没 1991年6月3日(満49歳没)
日本の旗 日本 長崎県
学問
研究分野 火山学
母校 ストラスブール大学
モーリス・クラフト
人物情報
誕生 1946年3月25日
フランスの旗 フランス ミュルーズ
死没 1991年6月3日(満45歳没)
日本の旗 日本 長崎県
学問
研究分野 火山学
母校 ストラスブール大学

カティア・クラフトKatia Krafft1942年4月17日 - 1991年6月3日)と彼女の夫、モーリス・クラフトMaurice Krafft1946年3月25日 - 1991年6月3日)は、フランス火山学者1991年6月3日に、日本雲仙岳での調査中に火砕流に巻き込まれて亡くなった。

クラフト夫妻火山写真撮影と映画撮影のパイオニアとして知られている。しばしば危険な溶岩流の足もとまで進んで火山の映像を記録しており、その価値は世界的に評価されていた。

来歴[]

2人はストラスブール大学で出会った。その後、わずかな貯金をはたいてストロンボリ山へ旅行し、火山の噴火の写真を撮ったことから2人の火山観察者としての経歴は始まった。人々が噴火の写真に興味を示すことに気づいた彼らは、その後火山の映像を記録することに打ち込み、世界を旅することになった。

クラフト夫妻は、しばしば活動し始めた火山に最初に到着していたため、多くの火山学者の尊敬と羨望を集めた。火山噴火における彼らの業績は、火山の脅威にさらされた自治体の協力を得ることに貢献している。例えば、1991年フィリピンピナトゥボ山の噴火活動が始まったとき、南米コロンビアネバド・デル・ルイス山の噴火(噴火にともなって発生した泥流で、21,000人以上の命が失われた)を撮影した彼らのビデオは、アキノ大統領を含む多数の人々の前で上映され、火山地域からの避難が必要なことを地元住人に理解させることに繋がった。日本へも三原山の噴火などで、度々来邦している。

モーリス・クラフトは、「私は火山へ接近することで死んでしまうとしても、それを恐れていない。なぜならそのお陰で23年間も様々な噴火を見ることが出来た。もし明日私が死んでしまうとしても、私は構わない」とビデオで語っていたが、残念なことにそれは現実のものとなってしまった。

1991年、雲仙・普賢岳の噴火で火砕流が発生すると、これまで写真でしか火砕流の映像を撮っていなかった夫妻は普賢岳へ向かう。そして6月3日、噴火を撮影している最中に、2人の立っていた高台は予想外の火砕流に襲われ、同行していたアメリカ地質調査所ハリー・グリッケンen:Harry Glicken)やマスコミ関係者、消防関係者ら41名とともに死亡した。被災したマスコミ関係者は、夫妻の背後は安全であると考えて取材を続けていた。

クラフト夫妻の仕事は、夫妻のインタビューとともに数多くの火山の映像と写真が収められているアメリカ地理学協会ナショナル・ジオグラフィック』誌のビデオに見ることができる。

NHKの番組で、溶岩流をボートで渡ってみたい、と語っていた。 2011年6月3日で雲仙・普賢岳火砕流から20年になるのを契機に、惨事で命を落としたフランスの火山学者夫妻を描くドキュメンタリードラマ「カティアとモーリス~雲仙・普賢岳に挑んだ夫婦~」が制作され、NHKとフランス2の国際共同制作で9月から長崎県島原市内でロケが行わた。また、長崎県島原市にある雲仙岳災害記念館ではクラフト夫妻の撮影した火山記録映像などを実際に見ることができる。

クラフト・メダル[]

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受賞者[]

関連項目[]

  • 地球科学者
  • 雲仙岳
  • 火砕流
  • 道の駅みずなし本陣ふかえ - 併設された火山学習館で夫妻の残した世界の火山活動写真などを見ることができる。
  • ゴルゴ13 - 夫妻をモデルとした学者夫妻の死にゴルゴ13が関与していたというエピソード『クラウン夫妻の死』(増刊第28話)がある。

参考文献[]

  • 『活火山』(山と溪谷社、ビデオ)

外部リンク[]

et:Maurice Krafft nl:Maurice en Katia Krafft pl:Maurice Krafft