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プレー山(Mount Pelée )
ファイル:La Pelée vue du Carbet.jpg
標高 1,397m
所在地 フランス領アンティルマルティニーク県
位置 北緯14度49分 西経61度10分
種類 成層火山

プレー山(ペレ山、ペレー山、モンプレ、フランス語: Montagne Pelée)は、西インド諸島のなかのウィンドワード諸島に属するマルティニーク島にある活火山。名称は『はげ山』の意味。西インド諸島はカリブプレート南アメリカプレートの下に潜り込む沈み込み帯に位置するため、一帯にはプレー山を含む著名な火山が4つ位置する。北から順にスーフリエール・ヒルズスーフリエールプレー、第二のスーフリエールである[1]

プレー山は1902年大噴火を起こし、当時の県庁所在地だったサン・ピエールを全滅させた。これによる死者数ははっきりしないが、2万4,000人とも、3万人ないし4万人とも言われる。いずれにしても20世紀の火山災害中最大であったことで知られる。

1902年の噴火[]

ファイル:1902-pelee-map.jpg

プレー山の噴火地図 実線は1902年5月8日の被害範囲。南西方向に火砕流が走ったことが読み取れる。点線は同8月30日の被害域。サン・ピエールの町はプレー山火口の真南7kmに位置し、海に面している(1904年制作)

ファイル:Pelee 1902 3.jpg

1902年5月8日の噴火後のサン・ピエールの廃墟

ファイル:Pelee 1902 2.jpg

プレー山の火砕流(1902年)。アルフレッド・ラクロワの調査隊が撮影

噴火の始まり[]

1902年4月上旬、登山者によりプレー火山の噴気活動が目撃された。4月25日、プレー山は噴火活動を開始した。4月27日には、山頂に直径180mの火口湖が形成され、噴出物が15mの高さに積もっていた。火口湖からは沸騰するような音がし、硫黄を含んだ火山ガスがサン・ピエールにまで達した。

4月30日には付近の川で土石流が発生し、付近の村を飲み込んだ。

5月2日午前11時30分、プレー山は地震とともに轟音を上げて噴火し、火山灰などの噴出物は島の北部を覆った。それとともに、火山灰などに汚染された植物を食べたことにより、家畜が死亡するようになった。

5月3日、降灰は北へ向きを変え、サン・ピエールへの降灰は一時少なくなったが、翌日には一転して増加。サンピエールとレ・プリーチャー地区との交通は遮断され、激しい降灰のために船の運航は難しくなった。

5月5日月曜日、噴火は一時落ち着いた。しかし、午後1時頃に突然海が約100m後退した後に激しく押し戻され、付近の都市が水に浸かった。一方、山の西部からも噴煙が上がり始めた。

同日、クレーターの一部が崩落してラハールがブランシュ川に押し寄せ、付近の村の住民約150名が犠牲となった。生き残った町の周辺の人々はサン・ピエールに殺到、不安の一夜を過ごした。

翌6日の午前2時頃、大音響とともに山は噴火。

5月7日水曜日の午前4時頃、噴火はさらに活発になり、火山の火映によりオレンジ色に染まった火山灰が山全体に降り注いだ。その日の間に多くの人々が町を脱出したが、町で噴火をやり過ごそうとした田舎からの住民が殺到し、サン・ピエールの人口は数千人増加した。 新聞は、あくまでサン・ピエールは安全であると主張した。これは、11日にサン・ピエールの市長選が行われる予定だったためであった。

同日には隣のセントビンセント島スーフリエール山が噴火し、火砕流により1680人が死亡。当局は、これにより山への圧力が解放されたとして住民らを安心させた。一方、山の活動も落ち着いたように見えた。

大噴火[]

5月8日、その日は主の昇天の祭日であった。

人々は、朝から噴火する山を見物していた。7時52分、それまで火山の情報を送っていたサン・ピエールの電信士が"allez"(どうぞ)とフォール・ド・フランスに送信したのを最後に町との連絡は途絶えた。

そのとき、サン・ピエールに停泊していた船から噴火の様子が目撃された。山は4度にわたって爆発し、噴煙が上に舞い昇る一方、その一部が火砕流となってサン・ピエールの方向へ流れていった。

灼熱の火砕流は瞬く間にサン・ピエールを飲み込み、建物を倒壊させると共にラム酒倉庫が爆発するなどして町は炎に包まれた。港に停泊していた船も巻き込まれて18隻が沈没したが、奇跡的に焼け残った2隻の船内にいた約100人は生還できた。

軍艦が12時30分頃に到着したが、火砕流の熱により、午後3時頃まで接岸できなかった。町はさらに数日間、燃え続けた。後には、破壊された町並みと折り重なるように倒れた犠牲者、そしてうっすらと町全体に積もった火山灰だけが残された。死者の中には、高温での水分が気化したために頭蓋骨が割れたものもあったという。

火砕流の速度は時速約150~200km、温度は約1,000℃であったと推測される。なお、サン・ピエールに到達したのは火砕流上部の、火山灰や火山ガスを主とする、密度が小さく流動性の大きな部分だけで、溶岩塊を含んだ本体はサン・ピエールのはるか手前で谷に入ってサンピエール直撃コースを外れ、海まで流れて行った。町を直撃した小密度で高温の流体は、その特性から「熱雲」と呼ばれ、火砕流の代名詞としてしばしば用いられた。

この結果、サン・ピエールの住民と避難民合わせて約30,000人が僅か数分(時計は噴火の2分後に停止している)のうちに死亡した(死者数については異なる数字が幾つかある)。その中には、サン・ピエール市長も含まれていた。市内の生存者は警察の地下牢にいた死刑囚Ludger Sylbaris(ルッジャー・ジルバリス。オーギュスト・シパリ[August Cyparis]とも言う)と、地下倉庫に隠れていた靴屋のレオン・コンペール=レアンドル(Léon Compere-Léandre)の計二名だけであった。Sylbarisは後に釈放され、バーナム・アンド・ベイリー・サーカスの芸人となって自身の火山罹災を売り物とした(1929年死去)。

その後[]

フランス本国では調査隊が組織され、アルフレッド・ラクロワらが現地調査を行った。ラクロワは、このとき観測された現象を"Nuée ardente"(ニュエ・アルダント―「燃える雲」=「熱雲」)と命名。町の廃墟や火砕流など、写真などの記録を残した。

5月20日、再び火砕流が発生し、サン・ピエールにあった残りの建築物を破壊した。

8月30日に火砕流がサン・ピエール北東のモルヌ・ルージュ村を襲い、2000人が死亡(噴火後の写真)。

10月、火山岩尖が発生し、成長し続けた結果、太さは100m以上、高さは300mに達し『プレーの塔』と呼ばれるまでになったが、不安定になり最終的には1903年3月に崩落した。その後、断続的に火砕流が発生したが、噴火は1904年になってようやく収束した。この噴火の結果、マルティニークの県庁所在地はフォール・ド・フランスへと移転されることとなった。

現在では、プレー山のような噴火様式をプレー式噴火Peléan eruption)と呼んでいる。これは、1902年に溶岩ドームが出現したことから、溶岩ドームの下部が爆発して火砕流が水平に飛び出したものと考えられてきた。しかし、守屋以智雄とカリフォルニア大学のRichard Fisherはこの説を否定しており、当時の記録から、プレー火山には1902年5月8日以前に溶岩ドームは無く、5月8日の噴火はスーフリエール山同様に噴煙柱が崩れて火砕流となったと結論付けている[2]

その後のプレー山[]

プレー山はその後、1929年にも噴火し、新たな溶岩ドームを形成した。噴火は1932年まで続いた。

プレー山は、活火山として現在でも地質学者火山学者の監視の対象となっている。

その他[]

この噴火における「囚人以外の住民が全滅した」というモチーフを元に、ポンペイにまつわる都市伝説が創作されたとみられる(詳細はポンペイの項目を参照)。

脚注[]

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  1. 以上の4山の表記は『理科年表』2006による。
  2. 守屋以智雄 『火山を読む』 岩波書店、1992年、ISBN 4000078216

関連項目[]

ウィキメディア・コモンズ
  • 火山火山の一覧
  • 新田次郎:1902年の噴火を題材とした短編小説『熱雲』を執筆した。

参考文献[]

外部リンク[]


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