三宅島 | |
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ファイル:MiyakeFromKozuTyoJpDec04-01.jpg 神津島から見た三宅島 | |
座標 |
北緯34度04分55秒 東経139度31分35秒 |
面積 | 55.44km² |
海岸線長 | 38.3km |
最高標高 | 775.1m |
所在海域 | 太平洋(フィリピン海) |
所属国・地域 | 日本(東京都) |
三宅島(みやけじま)は、伊豆諸島の島。雄山(おやま)を中心としてしばしば激しく噴火をすることで知られ、日本の気象庁によって火山活動度ランクAの活火山、常時観測対象火山に指定されている。最近では2000年から活発な火山活動が続いている。島の全域が富士箱根伊豆国立公園となっており、行政区画は島全体が東京都三宅村に属する。
地理・地質[]
東京の南海上175km、伊豆大島の南57kmに位置する。直径8kmのほぼ円形をした島。伊豆-小笠原海嶺の上にあり、第四紀更新世の後期(約1万 - 15万年前)になってこの付近の海底で噴火が始まり、島が形成されたと考えられている。
島は雄山を最高峰とする水深300 - 400mの海底からそびえるひとつの火山体で、玄武岩質の成層火山である。頂上部に直径約3.5kmの外側の桑木平カルデラと、2,400年前に形成した八丁原カルデラと、2000年の噴火によって出来た直径約1.6kmの内側のカルデラがある(八丁原カルデラは、2000年のカルデラ形成で消滅した)。このほか、山腹から付近海底での割れ目噴火がよく見られ、1983年の噴火など、割れ目火口が海岸近くに達したときは激しいマグマ水蒸気爆発が起こりやすい。また、溶岩の粘性が低いため溶岩流も起こりやすく、1983年には溶岩流が阿古地区の集落の約7割を焼失させた。
1983年の測量では最高点の標高は814mだったが、2000年に始まった噴火によって、火口などが500m以上陥没し、現在の最高点の標高は775.1mとなっている[1]。
2000年の噴火によって全島民が島外へ避難し、2005年2月1日に避難指示が解除された。しかし、雄山中腹にあった公共牧野は数mの火山灰が積もったままで、2010年現在、島の約3割は未だに立ち入り禁止となっているほか、一時的な観光客も含めた島の滞在者全員に脱硫マスクの携帯が義務付けられている。また、4年5ヶ月におよぶ避難生活によって、東京や伊豆諸島の他の島に生活基盤を移した人々も多かったが、2010年現在、約3,000名が帰島している。住民基本台帳によると、2007年1月時点での人口は約3,800人。
2005年5月1日から観光客の受け入れが再開され、2006年3月には今上天皇、美智子皇后が島民を慰労するために訪れた。
島内には「大久保浜」「釜ノ尻」「錆ヶ浜」「三池浜」などの海水浴場があるが、玄武岩質の黒い砂で、急に深くなっている。
2007年、日本の地質百選に選定された。
歴史[]
島名の由来はいくつかある。事代主命(ことしろぬしのみこと)が三宅島に来て、付近の島々を治めたという伝説から宮家島といった説、8世紀に多治比真人三宅麿が流されたことから三宅島とした説、火山が噴火することから御焼島に由来する説などがある。
江戸時代は流刑地で、江島生島事件の役者生島新五郎などの墓がある。
噴火活動が盛んで、1085年(応徳2年)以降、1154年(久寿元年)、1469年(文明元年)、1535年(天文4年)、1595年(文禄4年)、1643年(寛永20年)、1712年(正徳2年)、1763年(宝暦13年)、1811年(文化8年)、1835年(天保6年)、1874年(明治7年)、1940年(昭和15年)、1962年(昭和37年)、1983年(昭和58年)、2000年(平成12年)に噴火の記録がある。
噴火[]
最近500年間では、平均50年の間隔で13回の噴火が起き、明治時代以降だけでも5回を数える。その中でも三宅島の火山活動で特に語られるのは直近の2回、1983年、2000年である。
1983年の噴火[]
1983年に発生した噴火では、10月3日12:00(以下JST)頃から、阿古地区などの島の南部で小さな地震が感じられるようになり、13:58に北部の三宅島測候所で火山性地震を観測。そして、15:23頃に南西山腹に生じた割れ目から噴火した。噴火が始まったのは七島展望台と二男山の間にある斜面と考えられている。噴火開始から20分後には、小火口の列が南北に延びていった。
割れ目火口から列をなして高さ100m以上に吹き出た溶岩は、主に火口西方にある阿古方面、南西にある錆ヶ浜方面、南南西の粟辺方面の3つに分かれて流れ、阿古方面に流れた溶岩流は約1.7km/hで流下し、18:00頃には民家を焼き、阿古地区の一部を飲み込んだ。なお、粟辺方面に流れた溶岩流は、17:56に海に到達したことが確認されている。
一方、16:17に新澪池の北西で大噴煙が上がり、16:38には最初のマグマ水蒸気爆発が発生。17:10頃には島の南端、新鼻付近で爆発が発生し、17:22には隣の御蔵島から新澪池の西方で火柱が目撃されている。その後、19:17に新澪池北西から西方にかけて激しい爆発が発生し、21:40には新鼻およびその東側で最も激しい水蒸気爆発が発生。翌4日未明にかけて爆発や噴火が相次いだ。これらの一連の火山活動によって、周辺に大量の岩塊や東方の坪田方面に火山礫や火山灰が降下した。溶岩の流出は4日の早朝にはほぼ止まった。
住宅の埋没・焼失は約400棟。山林耕地等に被害が出たが、幸いにも人的な被害はなかった。
国土地理院の測定によると、噴出物の総量は、溶岩流が5 - 7×106m³、火山灰等が6×106m³、計2,000万tであった。噴火前後に、計101回の有感地震が発生し、そのうちの最大は3日22:33に発生したM6.2の地震で、三宅高校では震度5を観測した。
2000年の噴火[]
2000年に発生した噴火では、6月26日18:30過ぎに群発地震が始まり、19:33に気象庁が噴火の恐れが高いとして「緊急火山情報」を出し、翌27日朝までに坪田・三池・阿古・伊ヶ谷地区の住民が島の北部に避難。そして、9:00頃に島の西方約1kmの海上で海底噴火が発生した。
その後、三宅島西方海域で群発地震が発生し、震源域は時間とともに西北西に移動。そして、7月1日16:00過ぎ、神津島付近でM6.4の地震が発生し、神津島では震度6弱を観測した。
一旦火山活動は沈静化するものの、7月4日から再び活発化。7月8日18:43に雄山で水蒸気爆発が発生。灰色の噴煙が島の東側に流れ、赤色の火山灰が降下した。噴火そのものは小規模だったものの、翌5日朝になって、山頂部に直径約800mの巨大な陥没火口ができていることが判明(雄山の山頂部がそのまま陥没していた)。約2,500年ぶりとなるカルデラ形成となった。カルデラは直径・深さともに成長していき、14日・15日と水蒸気爆発を起こして島内に大量の火山灰を降下させた。
8月10日早朝6:30頃に山頂の陥没口から噴火が発生。噴煙は上空6,000m以上に達した。その後、18日・29日に大規模な噴火があり、18日の噴火の噴煙は上空15,000mに達し、火山弾が住宅地にも落下。29日の噴火では低温の火砕流様の噴煙が海まで達し、雨による泥流が頻発した(この時住民が数名飲み込まれたが、低温だったことが幸いして死傷者は出なかった[1]。また、この時火砕流の中からインターネットの掲示板に状況を書き込んだ女性が一部で話題となった[2])。これらの火山弾の被害や「火砕流発生」の報道などが全島避難という決断を後押しした。小規模な噴火はその後も断続的に発生する。この間の噴出物の総量は約1,100万m³と推定されており、御蔵島だけでなく100km以上離れている八丈島でも降灰が確認されている。
この噴火は、世界でも類を見ないほど大量の火山ガスが放出されているところにも大きな特徴がある。8月中旬から三宅島から離れた関東地方でも刺激臭がするという報告が入り、9月に入ってからは徐々に二酸化硫黄の放出が増加。1日あたり5万トンにも達した。その後は放出量が減少していくものの、2010年現在においても数千トンもの放出が続いている。なお、日本において、人為的に発生する二酸化硫黄の量が、1日あたり約3,000トンとされている。
こうした活発な火山活動のため、2000年9月2日から全島民が避難したが、2005年2月1日15:00に避難指示が4年5ヶ月振りに解除された。しかし、火山ガスはいまだ発生しており、2010年現在、島の約3割は立ち入り禁止区域となっている。
噴火期間中、NHKは2004年度分の1,280世帯、2,303万4,000円分のNHK受信料を免除した[3][4]。
オートバイレース[]
2000年に発生した火山の噴火による災害の復興策として、主に観光客誘致などを目的としてイギリスのマン島で行われているマン島TTレースを参考に、現東京都知事である石原慎太郎が提唱し、2007年11月16日から11月18日にチャレンジ三宅島モーターサイクルフェスティバルが開催された。
しかし、安全面などから規模が縮小され、レーシング・マシンの走行は、阿古地区の2.5km周回コースでの時速70kmの速度制限付きとなった。なお、パレードやラリーでは島全周が、公式レースであるドラッグレースでは閉鎖中の飛行場が使われた。
開催当時も火山ガスが噴出する地域があるなど、観光客誘致の起爆剤となるかどうかは未知数とされているが、第2回目が2008年10月17日から10月19日に、第3回目が2009年10月24日、10月25日に開催された。
生物相[]
2000年の噴火による火山ガスや噴火による泥流によって、周辺海域を含めた島の広範囲が影響を受けており、環境が激変している。かつては200種以上の野鳥がおり、「バードアイランド」と呼ばれ、バードウォッチングの愛好者が良く訪れていた。火山活動が比較的緩やかになったことで、これらの野鳥も回復しつつあるという。なお、ツグミ科のアカコッコは固有種で、「アカコッコ館」があり、島の象徴になっている。
ジャック・モイヤーが魅了された三宅島周辺海域は、魚類などが豊富で、様々な地形を有することから、スキューバダイビングが楽しめる場所でもあり、首都圏から多くのダイバーが訪れる。島周辺には多くのダイビングポイントがあり、約600種類以上海水魚が生息している。また、約90種類のサンゴが生息する北限域である。
「長太郎池」は天然の閉鎖性磯場で、ハゼやタカノハダイからウツボ、ガンガゼ、ヤドカリ、ヒトデなど、さまざまな海洋生物が容易に観察することができることから、家族連れなどにも人気がある。一方、火山活動の影響が少なかった海域では数年間人間の活動が無かったことから、イセエビなどが豊富に棲む良い環境になっている。
観光[]
釣り、バードウォッチング、スキューバダイビング。
来島に際しては、火山性ガスへの対策としてガスマスクの携行が求められている。竹芝桟橋の売店または島内の観光協会で販売している。
産業[]
避難生活が始まる前は漁業(くさや・テングサが有名)・農業(明日葉が有名)のほか、豊かな自然を生かした観光業が盛んであった。
避難解除後も漁業生産については復活が著しい。観光業については、一般観光客は少ないが、数年間島が閉鎖状態にあったということで、好漁場として釣り客が多数来島している。
御蔵島との関係[]
本島の南約18kmには、御蔵島がある。人口200人ほどと小規模な離島であることから、物資や交通などの生活の多くを三宅島に依存してきた。御蔵島村営(のち伊豆諸島開発)の連絡船えびね丸の基地が置かれた阿古地区には御蔵島会館が置かれ、御蔵関係の人々の利便を図ってきた。三宅島の商店や建設業者にとっては、競合相手の少ない御蔵島は重要なマーケットであった。また漁業者にとっても、地元の漁師が極めて少ない御蔵島周辺海域は絶好の漁場であった。
1993年以降、御蔵島でのイルカウォッチングがテレビや新聞で取り上げられ、全国的に有名になると、これに目をつけた三宅島の人々も続々参入した。中には「三宅島から45分」など御蔵島の名前さえ出さずにアピールする業者もあるほどで、三宅島の観光の一つの柱になりつつあった。交通の便や収容量、ウォッチングに使う漁船の大きさで圧倒的優位に立つ三宅島側に対し、御蔵島側は商用利用と自然保護の間で慣れない舵取りを迫られた。
しかし、2000年の噴火で状況は一変する。三宅島との連絡船を始めとする既存の交通体系を失った御蔵島へ、代替として東京からの船便が大幅増便され、やがて毎日就航にまでに拡大された。
この間に宿泊施設を拡充させた御蔵島は、東京都と共同でエコ・ツーリズムの推進を打ち出し、イルカなど動植物の保護と観光を一体化する政策を実現させ、御蔵島の名前を全国区に押し上げることに成功する。こうした施策の成功で、避難解除後も御蔵島への船便はそのまま維持された。三宅島と東京を結ぶ航空便の利便性も大幅に低下したため、御蔵島にとって三宅島は物資・交通の中継地ではなくなった。
結果、三宅島としては重要なマーケットを失うことになったほか、イルカウォッチングも観光の目玉として噴火前のように前面に打ち出すことができなくなった。現在も三宅島からのイルカウォッチングは行なわれているが、そのポジションは渡島スケジュールやキャパシティの問題で御蔵島に行けなかった人たちを受け入れる補完的なものに過ぎない。また帰島後のウォッチング再開にあたって東京都や御蔵島と協定を結ばざるを得なかったため、以前のように無制限に御蔵島周辺に行けるわけではない。
なお行政面は噴火の前・後ともに一貫して変わっておらず、都の出先機関は御蔵島も含め三宅支庁であり、御蔵島駐在所は三宅島警察署の管轄である。また建設業の主力も引き続き三宅資本である。
脚注[]
- ↑ ただし、噴火前の神津島付近の地震で死者1人、負傷者15人が出ている。
- ↑ 死線を越えて(インターネット掲示板「ある火山学者のひとりごと」への書き込み)
- ↑ 三宅島噴火及び新島・神津島近海地震に対してとった措置
- ↑ http://www.bousai.go.jp/hakusho/h16/BOUSAI_2004/html/hyo/hy2604010.htm
関連項目[]
- 大野原島 - 島の西方約9kmにある島。
- 英一蝶
- 井上正鉄
- 浅沼稲次郎
- ジャック・モイヤー
- ツバキ
- エビネ
- みずほ銀行(概要・地域的基盤を参照)
- 都の三宅支庁庁舎内に東京中央支店三宅島出張所が所在。しかし、2011年11月21日付で東京中央支店に統合予定。
- 日本の地質百選
参考文献[]
- 国立天文台編 『理科年表 平成20年』 丸善、2007年、ISBN 978-4-621-07902-7。
外部リンク[]
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