三河地震(みかわじしん)は、1945年1月13日午前3時38分23秒に、愛知県の三河湾で発生した直下型地震である。 1945年の敗戦前後にかけて4年連続で1000名を超える死者を出した4大地震(鳥取地震、東南海地震、南海地震)の一つである。
概要[]
震源地は三河湾 北緯34度42.1分 東経137度6.8分、深さ11km。三重県津市で震度5を記録したが、震源に近い現在の西尾市などでは震度6(現在の震度階級では7)であったといわれる。
震源が浅く、マグニチュード6.8と規模が大きかったにも関わらず、被害報告はごく僅かしか残されていないために、現在に至ってもこの地震について詳しいことは判っていない。地震が発生した当時は太平洋戦争中であり、『戦意を低下させないよう』、当時の政府当局によって(敵への情報流出も作戦へ影響するため)報道管制が敷かれ、三河地震のことを一切報道するなと圧力をかけたからであるとも言われる[1]。1ヶ月前の1944年12月7日に発生した東南海地震の最大規模の余震ともいわれており、地震発生当初は第一次地震と呼ばれた東南海地震に対して第二次地震と呼称された[2]。
死者1180人、行方不明者1126人、負傷者3866人。家屋の全壊は7221戸、半壊1万6555戸、全焼2戸、半焼3戸、その他2万4311戸[3]。
この地震により深溝断層(ふこうずだんそう)が生じた。断層の総延長は28km、最大の高低差は約2m、横ずれ変異量は約1mである。死者が多かったのは幡豆郡福地村、西尾町、三和村(以上現・西尾市)、同横須賀村(現・吉良町)、碧海郡桜井町(現・安城市)、明治村(現・西尾市、安城市、碧南市)、宝飯郡形原町(現・蒲郡市)などで、矢作古川周辺では液状化現象も見られた[4]。
被害状況は集落ごとに大きな差があり、ある集落は壊滅している一方で隣の集落はほとんど被害がないという状況も随所で見られたと言われている。深溝断層は逆断層で、隆起側での家屋倒壊などの被害規模が大きく[5]、沈降側での被害は断層からの距離が10m以内に集中した[4]。また、三河湾で小規模な津波の発生が確認されている[4]。
局地的な被害は一般の直下型地震よりも深刻で、上記の被害が甚大な地区では、どの家族にも死者が出るほどの高い死亡率だったと言う。なお、震源を離れた葉栗郡や中島郡、名古屋市から一宮市付近でも一部で家屋の倒壊があった[6]。
この地震で形成された深溝断層は、1975年に愛知県指定天然記念物に指定されている。
地震活動および発光現象[]
1月11日頃から形原町や西浦町では有感地震5〜6回を含む前震(マグニチュード5.9、5.2を含む)が発生していた[4] [7]。余震活動も非常に活発であり、近年余震が特に多かったといわれる新潟県中越地震を凌ぐ数の余震が観測された[8]。最大の余震は、本震発生後3日目に発生したM6.4の地震である[9]。
また前震や余震の前後に三ヶ根山周辺(地震断層の直上)で夜空が発光するなどの宏観異常現象が確認されたとの報告があるが[4] [10]、当時は灯火管制が敷かれており、人工の灯りである可能性は低いとされる。
江戸時代の三河地震[]
1686年10月3日(旧暦・貞享3年8月6日)に遠江と三河の沖合いでマグニチュード6.5〜7の地震が発生し、被害はこの2国におよんだ。遠江三河地震と呼ばれる。
1685年に記録されている三河地震は、根拠となった『渥美郡史』の誤字であり、発生はしていないとされる。
脚注[]
参考文献[]
- 新修名古屋市史編集委員会『新修名古屋市史 第8巻 自然編』、名古屋市、1997年
- 木股文昭、林能成、木村玲欧『三河地震60年目の真実』、中日新聞社、2005年
- 中央防災会議 『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1944 東南海地震・1945 三河地震:第4章 三河地震の災害と概要』、2007年
関連項目[]
外部リンク[]
- わすれじの記 愛知県蒲郡市教育委員会が作成した三河地震のページ
- 三河地震による地震断層
- 1945年三河地震による災害と海軍基地の対応について 歴史地震 (21) pp.223〜233 2006 歴史地震研究会
- 三河地震
テンプレート:日本近代地震