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平成5年(1993年)
北海道南西沖地震
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本震
発生日 1993年(平成5年)7月12日
発生時刻 午後10時17分12秒(JST
震央 日本の旗 日本 北海道
奥尻島北方沖
北緯42度46.9分
東経139度10.8分(地図
震源の深さ 35km
規模    マグニチュード(M) 7.8
最大震度    震度6:奥尻島(推定)
津波 16.8m:奥尻島 初松前地区
被害
死傷者数 死者:230人
行方不明者:29人
被害総額 1243億円1
被害地域 北海道・東北地方北部
注1:北海道庁による
  • 特に注記が無い場合は気象庁による。

北海道南西沖地震(ほっかいどうなんせいおきじしん)は、1993年(平成5年)7月12日午後10時17分12秒、北海道奥尻郡奥尻町北方沖の日本海海底で発生した地震である。マグニチュードは7.8、推定震度6(烈震)で、日本海側で発生した地震としては最大規模。震源に近い奥尻島を中心に、火災津波で大きな被害を出し、死者230名、行方不明者29名を出した。さらに、ロシアでも行方不明者3名。震度が推定になっている理由は、当時地震計が置かれていなかったため。

地震学的概要[]

震源北緯42度46.9分、東経139度10.8分、深さ35kmであり、ユーラシアプレート北アメリカプレートのプレート境界のサハリンから新潟沖へとつながる日本海東縁変動帯にある奥尻海嶺直下で発生した。気象庁発表のマグニチュードは7.8、モーメント・マグニチュード(Mw)は7.7。

報道態勢[]

気象庁とNHKでは、地震を受け直ちに震源と津波情報の発信を急いだ。その結果、地震発生から5分後の午後10時22分に、気象庁は北海道日本海沿岸、奥尻島を含む北海道西方四島全域と東北地方の日本海沿岸に大津波警報、北海道と東北地方の太平洋沿岸に津波警報、オホーツク海沿岸に津波注意報を発表した。NHKでは津波警報発表を受け、地震発生から7分後の午後10時24分47秒に緊急警報放送を実施した[1]。なお、北海道・東北地方以外でも、津波警報は翌13日午前0時12分には新潟県から福井県の沿岸に、津波注意報は12日午後10時26分には新潟県から石川県能登半島東部の沿岸に、午後11時24分には石川県能登半島西部から島根県の沿岸[2]に、翌13日午前0時12分には山口県の日本海沿岸から鹿児島県薩摩地方の沿岸にそれぞれ発令された。

1983年(昭和58年)の日本海中部地震では、地震発生から津波警報発表まで14分、津波警報の報道までに19分を要した。それと比較すれば、この地震の報道は、かなり迅速化が図られたといえる。ところが、震源に最も近かった奥尻島には、地震発生から5分と経たないうちに大津波が押し寄せ、下に示すように多くの犠牲者を出してしまった。日本海中部地震の時の半分に満たない時間で報道できたにもかかわらず、奥尻島の住民には、津波警報が間に合わなかったのである(参考:NHKスペシャル「テレビは災害をどう伝えてきたか」)。

第40回衆議院議員総選挙が近かったため、政見放送を放送していた地域が多く、全国ニュースの切り替えには時間がかかったという。背景には、政見放送を中断することが公職選挙法に抵触する可能性があったためと言われている。

報道は災害当初、北海道本島側にある明治期より古くから測候所のあった寿都町より電話にて状況報告が行われていた。災害当時NHKの教育番組制作のためのスタッフが奥尻島青苗地区に滞在中であった。スタッフはカメラ一台とテープだけを持って高台に避難した。その後函館局と電話がつながり、取材班のディレクターが電話リポートを行った[3]。翌朝、札幌局がヘリコプターにて最小限の中継機材を運びこみその機材で翌朝実況生中継が行われた。

民放でも一部番組を変更して報道したが、北海道放送(HBC)が地震発生当初、半年前の釧路沖地震を思い出したのか、当時の報道部社員が「釧路、釧路、釧路!」と絶叫、釧路放送局の関係者に連絡しようとしていたことはあまりにも有名。

被害状況[]

奥尻島には当時地震計が設置されておらず、災害当初は対岸の北海道本島にあり古くから測候所のある寿都町の情報が報道されたが、寿都町は地盤がよいため震度4程度が報道された。しかし奥尻島の災害がわかるにつれて最終的に人的被害は、死者230名(青森の1名含む)、行方不明者29名、負傷者323名。家屋被害は、全壊601棟、半壊408棟、一部損壊5490棟、焼失192棟、浸水455棟、その他735棟に及んだ。さらに、道路の損壊630箇所、港湾・漁港の被害80箇所、船舶被害1729隻を出した。なお、道南の松前郡松前町では、地震によるショックで52歳の男性が、病院へ搬送中に死亡している。

揺れによる被害[]

島の東部にある奥尻地区では、地震直後に崖崩れが発生、直下にあったホテル洋々荘・森川食堂などが土砂により倒壊し、宿泊客と従業員41名のうち、28名が死亡した。その他数カ所で崖崩れが発生し、道道奥尻島線などが一時通行不能となった。フェリーターミナルの方を迂回するしか方法はなかった。

震度計が設置されていなかったことなどから、正式な震度については発表されていない。そのため、推定最大震度は6(北海道本土では最大で5を観測)となった。ただし、青苗地区のみを対象とした実地検分(気象庁職員が実際に現地を視察し、震度5・6を観測した地点で家屋倒壊が一定の基準を満たすかどうかについての検査)を行えば、当時の震度で7となっていた可能性が高い。

津波による被害[]

津波での死者・行方不明者は、奥尻島で島の人口の4%にあたる198名、北海道本島の島牧村北檜山町瀬棚町大成町(いずれも現在のせたな町)などでも死者を出した。

第1波は地震発生後2-3分で奥尻島西部に到達し、5-7分後には藻内地区のホヤ石水力発電所に到達した。北海道本土側の茂津多岬付近では第1波が地震発生後約5分で到達している。津波の被害を最も大きく受けたのは、奥尻島南部の青苗地区である。三方を海に囲まれたこの地区は、震源より直接到達した波が、市街地でも高さ6.7mに達したほか、島を回り込んだ波、北海道本土で反射した波など複数方向から津波の襲来を受け、事実上壊滅状態になった。地区の人口1,401人、世帯数504に対し、死者・行方不明者109名、負傷者129名、家屋全壊400棟という被害を出した。このほか、藻内・松江など島の南半の各地区と、北端の岬にある稲穂地区でも津波で死者が出ている。

奥尻島の各地区における津波の高さ(波高)は、稲穂地区で8.5m、奥尻地区で3.5m、初松前地区で16.8mに達した。

遡上高は、震源からの津波の直撃を受けた島の西側で特に高く、藻内地区で最大遡上高30.6mを記録した。

奥尻島は1983年(昭和58年)の日本海中部地震で津波被害を受けており、このときの到達は、地震発生から17分後であった。この経験から徒歩で迅速に避難し助かった人も多くいたが、逆に津波到達までは時間があると判断し、車で避難しようとして渋滞中に、また車で避難中に避難路の選択を誤ったり、あるいは避難前に用を済ませようとするうちに津波に飲まれた人も少なくなかった。その一方、海岸付近に立てられた鉄筋コンクリート2~3階建ての住宅が一家の命を救ったという事例が存在する。

火災による被害[]

この地震では、火災も発生した。青苗地区では、津波襲来直後に9件の火災が発生し、北東からの風速10m近い風にあおられ、瞬く間に燃え広がった。出火原因は分かっていないが、奥尻消防署の調べによると、午後10時40分頃、青苗北部の旅館がある一角から出火。さらに、午前0時30分頃にも漁業協同組合の倉庫や食堂が多くあるあたりから出火したという。

延焼が進むにつれ、プロパンガスのボンベや家庭用の燃料タンクが爆発を繰り返した。さらに、津波による漂流物が消火活動を阻み、手のつけられない状態となった。そのため、消防団は破壊消防を実施し、延焼の拡大を食い止めた。その結果、青苗1区の17棟だけは焼失を免れた、それ以外は火災により焼失したか、津波により流出している。

鎮火に至ったのは、最初の出火から約11時間後で、延焼面積は約5ha、焼失は192棟に及んだ。火災を直接の原因とする死者はなかった。

復興[]

津波により直接・間接的に被害を受けた施設、住宅、生活基盤等の復興の他、将来の災害を見越した各種防災設備が構築された。 復興に投入された費用は約927億円にのぼる(単純に当時の島の人口約4700人で割ると一人当たり約1970万円という計算になる)。 なお、災害後に190億円を超える災害義援金が集まり、災害復興、防災対策、各種見舞金等に充てられた(檜山広域行政組合ウェブページより)。

新たに作られた主な施設[]

  • 防潮堤 - 総延長約14km、高さは最も高い場所で約11メートル。総工費約350億円。
  • 人工地盤 望海橋 - 漁港に設けられた、津波発生時の一時避難を目的とした橋状の構造物。総工費約26億2千万円。
  • 避難路 - 津波の際に住民が迅速に高台へ避難するためのスロープ。ドーム形式のものもある。
  • 奥尻島津波館 - 大津波の痛ましい記憶を後世に伝える施設。総工費約11億5千万円。
  • 慰霊碑「時空翔」。
  • 町立青苗小学校 - 津波対策のため1階部分が空洞になっている(ピロティ構造)。
  • 奥尻町生涯学習センター。
  • 観音山崩落の治山工事後、法面にサムーンと呼ばれる壁画(設置負担金約1千9百万円)が設置されたが、現在は撤去された。

教訓[]

  • この地震では震源が奥尻島のすぐ近くの海底であった事により地震発生直後に大津波が来襲したため、情報伝達の迅速化を図っても震源の地点によっては津波警報がどうしても間に合わない場合がある(技術の限界)という厳しい現実を突きつけられた形となった。またそれとともに海岸部に居住する人は、大きな揺れを感じたら津波警報を待つことなく、直ちに高台や高い建物の上に退避するべきであるという教訓を残した。
  • 一方で、津波警報が間に合わなかったことを受けた気象庁、NHKでは、さらなる津波情報送り出しの迅速化がなされた。その教訓が生きたのか、この地震発生の翌年、北海道東方沖地震が発生し根室に1m73cmという高い津波が押し寄せたが、地震発生後ほどなくして津波警報発表、緊急警報放送が実施され、結果として津波による犠牲者は北海道本土では全く出なかった(但し、択捉島などの北方四島では犠牲者が多数発生)。
  • 地震発生当時は震源に近い奥尻町など、地震計が置かれていなかった市町村が多かったため、これらの市町村では市役所・町村役場職員の体感などで震度を推定する方法が取られていた。そのため、奥尻町が推定震度で報道されていたが、その後全市町村に震度計が設置されることになり、震度計による震度測定に完全移行した。
  • 地震による火災だったにもかかわらず、火災保険にしか入っていない住民が多かったことから、保険に対する扱いが大きな問題となった。特に住宅ローンを組む際に火災保険に関する扱い、地震保険に入るか入らないかということが話に出ることなく地震保険に入らない扱いにされたことが大きな問題になった。
  • 当時奥尻島には駐在所3か所があったが、警察学校入校中と入院中のため青苗駐在所の一人の警察官しかいなかった。地震当日一般加入電話・警察専用電話も不通となったため、警察官は夏季のみ配置されていた警察無線機(通常は無線不感地帯のため配置なし)を持ってミニパトカーで山に登り、無線機で必死に江差警察署と連絡を取り、青苗地区壊滅負傷者多数緊急救援頼むと連絡し、その報告を受けた北海道警察本部長は、通常夜間飛行しない警察航空隊に対して直ちに発進、奥尻に向かえと指示した。しかし現地到着するも停電のため奥尻空港に着陸できず、上空から火災状況等を報告した。
  • 奥尻島に所在する航空自衛隊奥尻島分屯基地は、地震発生直後ただちに近傍災害派遣を発令し、崩壊したホテルでの救出活動や青苗地区での消火・救助活動に従事すると共に、負傷者に対しての医療支援・食料提供等を実施した。
  • 地震当日、奥尻港に停泊していた定期フェリー『おくしり』は、大津波の最中脱出に成功している。船長が日本海中部地震を秋田港でイカ釣り漁船に乗っていた時に経験していたことや、地震を感じた直後船員全員が船に乗っていたこともあって、「総員緊急配置、エンジン始動、直ちに出港」を指示し、舫い綱全てをで叩き切り脱出した。防波堤を超えた所で第1波と遭遇したが、何とか突破し沖に逃れ第一管区海上保安本部(小樽)に船舶電話にて「奥尻島に大津波襲来被害多数至急救援求む」と連絡、これが奥尻島被災の第一報となった。

関連項目[]

  • 地震の年表
  • 日本海東縁変動帯
  • 日本海中部地震 - 本地震の10年前に発生した地震。この地震でも津波で多くの死者が出た。また、この地震(と津波)の教訓からいち早く高台に避難した島民もいた。
  • チリ地震 (2010年) - 日本国内で本地震後としては初めて「大津波警報」が発令された地震。チリ地震津波報道でも大津波警報発令に関して当地震が引き合いに出された。
  • 中村征夫 - 写真家。地震発生時は取材撮影の為に青苗地区に滞在中。彼の撮った奥尻島の惨状を撮影した写真が全世界に配信された。
  • ナショナルジオグラフィックチャンネル - 『警告!最大級の自然災害ビッグ4』放送で、島内で被災した漁師の証言を放送した。
  • 仰天真実・・・ザ!ミラクル - 2010年9月29日に放送された日本テレビの特番で、津波にのまれた家族の模様を放送した。

脚注[]

  1. 午後10時21分頃から緊急警報放送が実施された午後10時24分47秒までは札幌局のスタジオから道内関係分の関連情報を放送した。また、午後10時24分22秒から15秒間、津波警報発令に伴い「ピロピロ」音が流された。
  2. 上記に記述の通り、13日午前0時12分には新潟県から福井県の沿岸は津波警報に切り替えられた。
  3. 『奥尻 その夜』(朝日新聞社刊)より

外部リンク[]

テンプレート:日本近代地震