安政の大地震(あんせいのだいじしん、あんせいのおおじしん)は、1855年11月11日(安政2年10月2日)の午後10時ごろ、関東地方南部で発生したM6.9の大地震である。南関東直下地震の一つに含まれる。他の安政期に発生した地震と区別し、「安政江戸地震」とも呼ばれる。
地震の概要[]
近代的な観測のなされる前(1884年以前)に発生した地震であるため、その震源やメカニズムについては諸説があり、各地の地震被害資料や前兆現象の記録などから、フィリピン海プレート内部の地震(海洋プレート内地震)、太平洋プレート上面のプレート境界地震、内陸地殻内地震(大陸プレート内地震)が推定されている。震源は東京湾北部・荒川河口付近と考えられている。
被害の状況[]
被災したのは江戸を中心とする関東平野南部の狭い地域に限られたが、大都市江戸の被害は甚大であった。被害は軟弱地盤である沖積層の厚みに明確に比例するもので、武蔵野台地上の山手地区や、埋没した洪積台地が地表面のすぐ下に伏在する日本橋地区の大半や銀座などでは被害が少なかったが、下町地区、とりわけ埋立ての歴史の浅い隅田川東岸の深川などでは甚大な被害を生じた。また、日比谷から西の丸下、大手町といった谷地を埋め立てた地域では被害が大きかった。死者約4300人、倒壊家屋約1万戸とされている。
小石川の水戸藩藩邸が倒壊して、水戸藩主の徳川斉昭の腹心で、水戸の両田と言われた戸田忠太夫や藤田東湖が死亡した。また斉昭の婿である盛岡藩藩主南部利剛も負傷した。
その他[]
被害情報を伝える瓦版が発行され、風刺画の鯰絵なども刊行された。復旧事業が一時的な経済効果になったとも言われる。
この震災を機に、佐久間象山が大地震を予知する地震予知器を開発している。地震の予兆について人々から聞いた話を元に作成され、原理としては磁石の先端に火薬が付けられ、大地震が来る前にはその火薬が下に落ちるとするものであったという。
安政時代の地震[]
安政時代には、1854年12月23日(安政元年11月4日)に安政東海地震(M8.4)が、12月24日(11月5日)には安政南海地震(M8.4)が発生しており、この安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」と呼ばれる。また、この時代には他にも安政伊賀地震、安政飛越地震が発生している。[1]
脚注[]
- ↑ 1854年には「嘉永」から「安政」へ改元されたため、「嘉永~地震」ではなく「安政~地震」と呼ばれる。
参考文献[]
関連項目[]
外部リンク[]
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