明治三陸地震(めいじさんりくじしん)は、1896年(明治29年)6月15日午後7時32分30秒に発生した、岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200km(北緯39.5度、東経144度)を震源とする地震。M8.2~8.5という巨大地震であった。
地震後の津波の被害が甚大だったこと、および、この津波を機に「三陸海岸」という名称が生まれた[1]ことで知られる。
概要[]
宮古測候所の地震計も5分間の揺れを記録していた。しかし、各地の震度は2~3程度であり、誰も気にかけない程度の地震だった。地震による直接的な被害はほとんどなかったものの、大津波が発生、甚大な被害をもたらした。
低角逆断層(衝上断層)型の海溝型地震と推定される。三陸沖地震の1つと考えられ、固有地震であるが、震源域は特定されていないため、発生間隔は数十年~百数十年とやや精度に欠ける。
明治三陸大津波[]
大津波の第一波は、地震発生から約30分後の午後8時2分に記録されている。到達した範囲は北海道から宮城県にわたった。
波高は、北海道の襟裳岬では4m、青森県八戸で3m、宮城県女川町で3.1mであったが、岩手県の三陸海岸では田老(現・宮古市)で14.6m、船越(現・山田町)で10.5m、重茂(現・宮古市)で18.9m、釜石で8.2m、吉浜(現・大船渡市)で22.4m、綾里(同)で21.9mと軒並み10mを超える高さを記録している。
特に綾里湾の奥では入り組んだ谷状の部分を遡上して、日本の本州で観測された津波では最も高い波高38.2mを記録した[2]。
被害[]
- 人的被害
- 死者:2万1915名
- 行方不明者:44名 (合計・2万1959名→北海道:6名、青森県:343名、岩手県:1万8158名、宮城県:3452名)
- 負傷者:4398名
- 物的被害
- 家屋流失:9878戸
- 家屋全壊:1844戸
- 船舶流失:6930隻
- その他:家畜、堤防、橋梁、山林、農作物、道路など流失、損壊。
メカニズム[]
明治三陸地震は、震度が小さいにもかかわらず、巨大な津波が発生し、2万人を超す犠牲者が出た。これは、この地震が巨大な力(M8.2~8.5)を持ちながら、ゆっくりと動く地震だったためである。最近の研究では、この時、北米プレートと太平洋プレートが幅50km、長さ200kmにわたって5~6mずれ動いたことが分かってきた。太平洋プレートの境界面には柔らかい堆積物が大量にたまっており、それが数分にわたってゆっくり動いたと推定される。その独特の動きが激しく揺れる地震波よりもはるかに大きなエネルギーを海水に与えたと考えられる。
また、地震動の周期自体も比較的長く、地震動の大きさの割に人間にはあまり大きく感じられない、数秒周期の揺れが卓越していた。このため、震度が2~3程度と小さく、危機感が高まりにくかったと考えられる。
後年、このような地震のタイプを「津波地震」もしくは「ゆっくり地震」と言うようになった。
余波[]
- ハワイ:全振幅2.5m~9m、若干の被害が生じる。
- サンタクルス:高さ2mを観測。
脚注[]
- ↑ テンプレート:PDF(岩手大学教育学部)
- ↑ 吉村昭がこの地震に関する証言収集のために、1970年に岩手県田野畑村羅賀を訪問した際、津波当時10歳であった老人から標高50m近くあった自宅に津波が浸水してきたという証言を得たとしているが(『三陸海岸大津波』p25-27、文藝春秋文春文庫、2004年、ISBN 978-4-16-716940-4)、海洋学者の三好寿は、件の老人の家は国土地理院の地図によると海抜25メートル程度に位置し、50メートルという値は老人と著者・吉村昭の会話の食い違いから生じた誤認であったとしている(『津波のはなし』、新日本出版社、1984年)。
関連項目[]
外部リンク[]
- 1896.6.15明治三陸地震津波の北海道における被害に関する文献調査(災害)北海道大学大学院工学研究科
テンプレート:日本近代地震
fi:Meiji-Sanrikun maanjäristys