有珠山 | |
---|---|
ファイル:Mount Usu.jpg 2000年の噴火で廃墟となった山麓(2001年7月) | |
標高 | 大有珠:737m |
所在地 |
北海道 有珠郡壮瞥町 虻田郡洞爺湖町・伊達市 |
位置 |
北緯42度32分38秒 東経140度50分21秒 |
種類 | 活火山ランクA |
有珠山の位置 |
有珠山(うすざん)は、北海道・洞爺湖の南に位置する標高737mの活火山。山頂は有珠郡壮瞥町にあり、山体は虻田郡洞爺湖町、伊達市にもまたがる。
概要[]
20世紀の100年間だけで実に4度もの噴火活動が観測された、世界的に見ても活発な活火山である。
二重式火山で、直径約1.8kmの外輪山の中に大有珠(737m)、小有珠などの溶岩円頂丘や、オガリ山、有珠新山(669m)などの潜在円頂丘が形成されている。また山麓にも溶岩円頂丘の昭和新山や、潜在円頂丘の金比羅山、四十三山(明治新山)などを有している。
1663年以降の活動はケイ酸 (SiO2) を多く含んだ粘性の高いマグマによるもので、噴火前には地殻変動や群発地震を発生し、噴火に伴って溶岩ドームや潜在ドームによる新山を形成するのが特徴である。
2007年、昭和新山とともに日本の地質百選に選定された。
歴史[]
成り立ち[]
洞爺湖をかたちづくる、洞爺カルデラの南部に有珠山が形成されたのは、約2万年前と考えられている。噴火を繰り返し年月をかけて成層火山をなしたが、約7千年前に山頂部が爆発。その際に山体崩壊が発生し、南側に口を開けた陥没地形が形成された。この時発生した岩なだれは噴火湾にまで達し、有珠湾周辺の複雑な海岸線をつくった。
江戸時代の噴火[]
7000〜8000年前の山体崩壊後は長く活動を休止した有珠山であったが、1663年(寛文3年)旧暦7月14日に山頂噴火した。翌日には山麓の家屋を焼き住民5人が死亡したとの記録がある。活動は7月末まで続いた。この時の噴出物で山頂南側開口部が再び閉塞され、山頂火口は現在のような臼状の地形となった。
次の活動は1769年(明和6年)12月で、南麓の集落が全焼した。山頂陥没部に現在の小有珠にあたる溶岩ドームが形成されたのは、この明和噴火か、その前の寛文噴火の時と考えられる。
最も大きな被害をもたらした噴火は1822年(文政5年)旧暦1月19日に始まった噴火で、2月1日には山の南側を中心に火砕流が流下し、火砕サージも発生した。これにより南西麓のアブタコタン(現在の洞爺湖町入江)が壊滅し、記録によって異なるものの50名以上の住民が死亡したとされる。また、蝦夷地随一の馬産牧場であった虻田・有珠牧場も多くの馬を失う被害を受けた。今日ではオガリ山と呼ばれている潜在ドームは、この噴火で形成された。虻田のアイヌ民族の昔話に、この文政噴火を題材としたものがある。噴火の時村民はみな他所に避難したが、村長だけは祭壇の前で祈り続けていた。やがて噴火が収まり、避難していた者がコタンにもどってきて見ると、村長がそのままの姿で祭壇の前に座っていた。驚いた村人が村長の肩に手をかけると、そのまま崩れて無くなってしまった。祈る姿のまま、焼かれて灰になっていた・・・というものである。
1853年(嘉永6年)の噴火も大規模な火砕流を伴うものだったが、当時集落のなかった洞爺湖方向への流下だったため、大きな被害はもたらさなかった。この噴火は27日に終息したが、翌日から山頂に溶岩ドームが成長しはじめた。これが大有珠である。
江戸時代の噴火はいずれも山頂からのもので、多量の噴出物を一気に放出する、いわゆるプリニー式噴火であった。また、いずれも火砕流と火砕サージの発生が見られ、被害の多くは火砕サージの熱風による家屋の焼失であった。
1910年噴火[]
1910年(明治43年)7月25日、北西麓の金比羅山で始まった噴火は、まもなく北東麓の東丸山にかけての地域で次々に火口が開き、その合計は45個に及んだ。マグマが洞爺湖付近の地下水と遭遇して水蒸気爆発を起こしたものであった。一部の火口からは熱泥流が発生し、これに巻き込まれた1人が死亡。噴火は8月5日まで続いた。なお、1903年5〜6月の鳴動は、前兆現象と考えられる。
北麓では地殻変動が起こり、最大約150m隆起して新たな山を形成した。この山は明治新山、あるいは明治43年にちなんで四十三山(よそみやま)と呼ばれる。
この噴火活動により、火口に近い洞爺湖岸では温泉が湧出するようになった。これが洞爺湖温泉の始まりである。
1944年-1945年噴火[]
有珠山東麓では1943年末から地震が続き、1944年(昭和19年)に入ると東九万坪と呼ばれる地域で次第に地盤が隆起しはじめた。6月23日についに水蒸気爆発が発生し、その後も爆発を繰り返した。この噴火では降灰による窒息で幼児1名が死亡している。
もとは標高100mあまりの台地であったところが、潜在ドームの形成により250mほどの山となっていたが、11月中旬になると火口から溶岩ドームが現れ始めた。この潜在ドームと溶岩ドームは翌年9月まで成長を続け、標高は400mを超えた。この新山は田中館秀三により昭和新山と名付けられた。
この噴火については昭和新山の項も参照されたい。
1977年-1978年噴火[]
前日の8月6日から有感群発地震が発生する中、1977年(昭和52年)8月7日午前9時12分に始まった噴火は山頂からのプリニー式噴火であった。同年8月14日未明まで4回の大きな噴火を含む10数回の噴火が断続。噴煙の高さは最高12,000m。火口周辺地域には多量の軽石や火山灰が堆積し、家屋が破壊された。降灰は道内119市町村に降り注ぎ、農作物に多大な被害を発生させた(火口原にあった牧場もこの噴火で消滅している)。また、当時付近を走っていた国鉄胆振線もこの噴火で不通になった。
11月16日からは水蒸気爆発が発生し始め、翌年の10月27日まで続いた。この爆発による火山灰は降雨によって泥流となり、死者2名、行方不明者1名が出た。
地震と地殻変動は1982年(昭和57年)3月まで続き、山頂部には有珠新山が形成された。また、長年地元民に親しまれてきた「銀沼」が巨大な銀沼大火口へと姿を変えた。この地殻変動により校舎が破損した洞爺湖温泉小学校は移転改築を余儀なくされた。
2000年噴火[]
最近の噴火は2000年(平成12年)のものである。3月31日午後1時7分、西山山麓からマグマ水蒸気爆発。噴煙は火口上3500mに達し、周辺に噴石放出、北東側に降灰した。[1]翌日には西山西麓、また温泉街に近い金比羅山でも新火口が開いた。8月には深部からのマグマ供給が停止し、9月以降は空振や火山灰噴出の活動は衰えた。
西山火口群を通過する国道230号は、地盤の隆起と断層により破壊され、通行不能となった。金比羅山火口からは熱水噴出により熱泥流が発生し洞爺湖温泉街まで流下、西山川に架かる2つの橋が流失した。火口に近い地域では噴石や地殻変動による家屋の破壊が多発した。また、広い範囲で地殻変動による道路の損壊が発生した。
3月27日からの火山性地震の分析や断層の探索により近日中の噴火が予知され、3月29日には気象庁から緊急火山情報が出された。これを受けて壮瞥町・虻田町(当時)・伊達市の周辺3市町では危険地域に住む1万人余りの避難を噴火までに実施していた(噴火後に避難者数は最大約1万6千人まで拡大)。通常、緊急火山情報は人命に関わるような噴火が発生したことを知らせるものであり、噴火前にこれが発表されたのは初めての例である。有珠山が比較的「噴火予知のしやすい火山」であること、噴火を繰り返す周期が短くかつ一定で、地域の住民の多くは前回、前々回、中にはそのさらに前の噴火を経験した人もいること、また、「温泉などの、有珠山の火山活動による恩恵を受けて暮らしているのだから、30年に1度の噴火は当然受け入れなければいけないこと」という意識が高く、周辺市町のハザードマップの作成や、普段からの児童への教育などがなされており、危険地域を避けた適切な避難誘導を行ったことなども被害が最小限で済んだ要因の一つであった。
熱泥流に襲われ校舎が破損した洞爺湖温泉小学校は敷地が砂防ダム用地になったことも合わせて再び移転改築を余儀なくされた。
第1回目の噴火直後、内閣安全保障・危機管理室からの要請で札幌行の特急列車を長万部駅で運行を打ち切って洞爺駅へ回送させ、折り返し虻田・豊浦町民を長万部町へ移送する等の避難列車を仕立てた。JR北海道・室蘭本線は一時期、跨線橋の落下などのため不通となり、長距離及び貨物列車の一部は函館本線経由で迂回運行された。3月29日から翌2001年(平成13年)6月30日までの間、道央自動車道の一部区間が路面損壊などのため通行止となった。
また、有珠山に近い室蘭市入江運動公園陸上競技場での開催が予定されていたサッカー・J2のコンサドーレ札幌対浦和レッズ(4月9日開催)、ナビスコ杯・コンサドーレ札幌対ガンバ大阪(4月12日開催)は試合開催と復旧作業を同時に行うと混乱を招くことから開催を延期し、前者は7月16日に同会場で、後者は5月24日に札幌厚別公園競技場で代替試合を開催した。
見学地[]
西山火口散策路[]
2000年に噴火した火口付近に設定された散策路。枕木を敷き詰めており、子供から年配の来訪客まで容易にアクセスできる。ちなみにその枕木は鉄道のレールの下に敷かれていた枕木である。展望台からは水蒸気が立ち上る様子や噴火により破壊された建物、隆起により寸断され水没した道路(国道230号)などを見学できる。以前は駐車料金300円を徴収していたが、2005年から土産物屋の利用を呼びかける形で無料となっている。
洞爺湖町立火山科学館[]
1977年、2000年の噴火時資料を多数展示。2007年に環境省のビジターセンターが100mほど西側に建設された際に同じ建物内に移転した。建物の南側には金比羅山麓災害遺構群散策路が整備されており、砂防ダム上から、2000年の噴火対策を行った際に、砂防施設内に取り残された団地を見ることが出来る。
脚注[]
関連項目[]
- 有珠山ロープウェイ
- 日本の地質百選
- 日本の山一覧
外部リンク[]
ku:Ûsû pl:Usu sk:Usu