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松代群発地震
本震
発生日 1965年(昭和40年)8月3日1970年(昭和45年)6月5日
震央 日本の旗 日本 長野県 松代町
(現・長野市皆神山付近
震源の深さ 0km
規模    マグニチュード(M)1 5.4
最大震度    震度5:1長野市 箱清水
地震の種類 群発地震
被害
被害地域 長野県
注1:最大規模。1966年4月5日 17時51分14秒発生。
  • 特に注記が無い場合は気象庁による。

松代群発地震(まつしろぐんぱつじしん)は、長野県埴科郡松代町(現・長野市)付近で1965年(昭和40年)8月3日から約5年半もの間続いた、世界的にも稀な長期間にわたる群発地震である。震源地は皆神山付近。総地震数は71万1341回。このうち、有感地震は6万2826回(震度5:9回、震度4:48回、震度3:413回、震度2:4596回、震度1:5万6253回)を数えた。最大の地震はM5.4。群発地震全てのエネルギーは、M6.4に相当する。なお、書籍によっては松代地震と記しているものもある。皆神山は地震活動の前後で約1m隆起し付近には、「松代地震断層」が発見された。

地震の原因は地下の溶岩の上昇が関わっており、溶岩の上昇に伴い熱せられた岩が膨張し発生したものと考えられ、観測結果から3箇所のマグマ溜まりの存在が示唆される[1]

地震活動[]

この群発地震は、発生地域によって5期に分けることができる。1930年6月1日 茨城県の太平洋沿岸、那珂川下流域を震源とするM6.5の地震、1943年田島地震(M6.2)および1949年今市地震(M6.2 / M6.4)がきっかけになった[2]との研究がある。

第1活動期[]

  • 1965年(昭和40年)8月~1966年(昭和41年)2月
震源は皆神山を中心とした半径5kmの範囲内。1965年(昭和40年)8月3日午後0時19分、気象庁地震観測所の高感度地震計は、震度0のごく微小な地震動を観測した。8月7日には、有感地震第1号が発生。8月17日には、有感、無感合わせて283回もの地震を観測した。10月1日午後5時27分には、震度3の地震が初めて発生した。11月22日から23日にかけて、震度4が2回発生。無感地震を含めると1日2000回を突破するようになる[3]

第2活動期[]

  • 1966年(昭和41年)3月~7月
震源域は北東、南西方向に広がる。地震、地殻変動の最盛期。1966年(昭和41年)1月23日午後8時15分、最初の震度5を記録。この地震を主とする一連の地震で家屋の一部損壊17戸、墓石倒壊31件などの被害が出た。4月17日には、無感地震が6119回、有感地震661回(約2分に1回)観測された。また、そのうち震度5が3回、震度4が3回であった。家屋破損に伴う負傷者も出た。

第3活動期[]

  • 1966年(昭和41年)8月~12月
震源域はさらに拡大。当初の皆神山付近から、須坂市川中島(長野市)、更埴市(現・千曲市)、真田町(現・上田市)あたりまで地震が発生するようになる。皆神山付近の地割れ群からは湧水が始まる。この時期の総湧水量は約1000万m³と推定される。このため、皆神山の南にある牧内地区では地滑りが発生、家屋11戸が倒壊した。しかし、東京大学地震研究所の教授らにより予測されていたため、住人や家畜はすでに避難しており、無事であった。4月5日には最大となるM5.4(震度5)の地震が発生した。
原因断層付近での湧水は、火山活動を原因とする CaCl2 型。

第4活動期[]

  • 1967年(昭和42年)1月~5月
震源域はさらに北東(高山村須坂市)、南西方向(坂井村)に伸び、皆神山を中心とする中央部の活動は減少した。地震数は激減し、1年間で2351回であった。

第5活動期[]

  • 1967年(昭和42年)6月~1970年(昭和45年)6月
活動は急速に衰え、1年間で観測された地震数は、1968年には745回、1969年は388回、1970年は201回であった。6月5日に終息が宣言された。しかしその後も、余震と見られる振動が続いた。

影響[]

被害[]

被害は、道路の地割れや住宅損壊、液状化、地下水の湧水などを中心に起こり、総被害は、負傷者15、家屋全壊10戸、半壊4戸、地滑り64件。住民の中には、ノイローゼを訴える者も現れた。

地震予知[]

震源域内で各種の観測と研究が行われた結果、日本の地震予知研究は大きく進歩した。また、北信地域地殻活動情報連絡会がモデルとなり、1968年4月国土地理院に事務局を置く地震予知連絡会が発足する。

関連項目[]

脚注[]

外部リンク[]