御岳(桜島) | |
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ファイル:Sakurajima55.jpg | |
標高 | 1,117m |
所在地 | 鹿児島県鹿児島市 |
位置 |
北緯31度35分19秒 東経130度39分17秒 |
山系 | 独立峰 |
種類 | 成層火山(活火山ランクA) |
桜島の位置 |
桜島(さくらじま)は、鹿児島県の錦江湾(正式には鹿児島湾)にある東西約12km、南北約10km、周囲約55km、面積約77km²の火山島。かつては文字通り島であったが1914年(大正3年)の噴火により大隅半島と陸続きとなった。
御岳(おんたけ)と呼ばれる活火山によって形成され、頻繁に噴火を繰り返してきた歴史を持ち、2011年現在も噴火を続けている。海の中にそびえるその山容は特に異彩を放っており、鹿児島のシンボルの一つとされる。
2007年、日本の地質百選に選定された。
地理[]
桜島の大部分を構成する御岳は南北に並ぶ北岳、中岳、南岳から成り、山腹に多くの側火山を配する。山裾が海まで伸びているため平地はほとんどないが、北西部と南西部の海岸沿いに比較的なだらかな斜面があり、農地として利用されている。温暖湿潤な気候でありながら、山肌に木々が乏しい上に、火山噴出物からなる土壌のため保水性が低く、川はほとんどが涸れ川となっている。桜島は全域が鹿児島市に属し、約85%は霧島屋久国立公園に指定されている。
明治以前は2万以上であった島内の人口は、大正大噴火の影響によって9,000人以下に激減。その後も減少が続き、1985年(昭和60年)には約8,500人、2000年(平成12年)には約6,300人、2010年(平成22年)には約4,000人となった。
御岳[]
- 北岳(標高1,117m)
- 桜島の最高峰。山頂に直径約500mの火口があり雨が降ると池ができることもある。有史以来山頂火口から噴火した記録はないが、北東斜面に安永大噴火の火口がある。
- 中岳(標高1,060m)
- 北岳から約900m南に位置する。有史以来噴火の記録はない。南岳の寄生火山の一つである。
- 南岳(標高1,040m)
- 中岳から約500m南に位置する。山頂に直径約700mの火口があり、その内側に二つの小火口(A火口とB火口)を擁する。火口内にはかつて白水と呼ばれる池があった[1]。この火口は1955年(昭和30年)以降活発な噴火活動を続けており、山頂火口から半径2km以内は立ち入り禁止となっている。南側山腹には安永大噴火の火口、東側山腹には昭和噴火の火口がある。
- 寄生火山(側火山)
- 湯之平(ゆのひら、標高373m): 北岳の西側斜面に位置する溶岩ドーム。御岳の山頂付近を間近に眺めることのできる湯之平展望所がある。
- 春田山(はるたやま、標高408m): 湯之平の東側に隣接する溶岩ドーム。京都大学の火山観測施設が設置されている。
- 権現山(ごんげんやま、標高350m): 南岳の東側斜面に位置する溶岩ドーム。
- 鍋山(なべやま、標高359m): 南岳の東側斜面に位置する火口跡。南側に大正大噴火の火口(東火口)がある。
- 引ノ平(ひきのだいら、標高565m): 中岳の西側斜面に位置する溶岩ドーム。北東部に大正大噴火の火口(西火口)がある。
集落[]
- 赤水 - 大正溶岩に広く覆われている。西南戦争時は臨時の県庁が置かれた。
- 横山 - 江戸時代は桜島郷の麓であり、大正大噴火までは西桜島村の行政の中心であった。
- 小池 - 江戸時代に横山より分村。
- 赤生原
- 武 - 周辺に火山性土石流(ラハール)によって形成された火山扇状地が広がる。
- 藤野 - 大正噴火後に西桜島村及び桜島町の行政の中心地となる。
- 西道
- 松浦
- 二俣
- 白浜 - 桜島の北端に位置する。白浜温泉がある。
- 高免 - 安永溶岩が海に伸びてできたスズエ鼻と呼ばれる岬がある。
- 黒神 - 埋没鳥居で知られる黒神神社や、昭和溶岩に埋め尽くされてできた地獄河原と呼ばれる溶岩原がある。
- 瀬戸 - かつて桜島と大隅半島とを隔てていた瀬戸海峡に面していた集落。大正溶岩に島津斉彬時代の造船所跡もろとも埋没した。
- 桜島口 - 桜島と大隅半島の接続点にあるバス停。周辺は幅約0.8kmの地峡であり鹿児島市黒神地区と垂水市早崎地区の境界にあたる。大隅半島の海岸沿いを通る国道220号から桜島南部を通る国道224号と桜島北部を通る県道26号が分岐する交通の要衝であるが、大隅半島側は戸柱鼻と呼ばれる断崖であり桜島側には大正溶岩が迫っている。特に大隅半島側の崖は崩れやすく大雨によってしばしば通行止めとなっていたが、これを避けるための迂回路が建設された(2008年3月20日完成)。
- 脇 - かつて有村の東側に隣接していた集落。大正溶岩に埋没した。
- 有村 - 大正噴火までは東桜島村の中心地であった。
- 古里 - 海辺の露天風呂で知られる古里温泉がある。
- 東桜島 - かつては湯之と呼ばれていたが、東桜島村が鹿児島市に編入された際に改称された。
- 持木 - かつて乙野尻や2番野尻と呼ばれていた。
- 野尻 - 文明溶岩が海に伸びてできた燃崎と呼ばれる岬がある。
植生[]
桜島は頻繁に噴火を繰り返してきたため同程度の標高を有する周辺の山地とは植生が異なっている。山頂付近には植物がなく標高600m付近からススキなどの草が生え始める。標高が下がるに従ってヤシャブシやノリウツギなどの低木がみられるようになり、クロマツや広葉樹の林へと続いている。山麓付近はクロマツ、タブノキ、アラカシ、シイの林となっており、北部から北西部にかけてはスギやヒノキの人工林も存在する。大正大噴火以前は山頂火口付近までヤシャブシの林があり、中腹まで広葉樹の天然林が広がっていた[2]。
桜島の溶岩原は形成時において植物やその種子が全く存在しない状態になったため、年月を経て植生が変化する遷移(一次遷移)の様相を呈している。噴出年代の異なる溶岩原にそれぞれ特徴的な植物群が分布しており、植生遷移の経過を一度に観察することができる貴重な場所である[3][4]。
- 昭和溶岩の植生は地衣類やセンタイ類で始まり、噴火後30年を経てイタドリやススキ、タマシダ、クロマツが生え始め、噴火後45年を経るとハゼノキやノリウツギも見られるようになった。
- 大正溶岩の上にはクロマツが生い茂り、ハゼノキ、ノリウツギに加えてヤシャブシも見られる。
- 安永溶岩の上はクロマツ林からアラカシ、タブノキなどの常緑広葉樹林へ遷移しつつありシャシャンボやシャリンバイも見られる。
- 文明溶岩の上はシイやカシ、ツバキ、タブノキなどを含む照葉樹林となっているが、人工林になっている場所も多い。
歴史[]
桜島西部の横山にある城山(横山城跡)は古い時代に形成された台地であり、少なくとも約11万年前には陸地として存在していたと考えられているが、残りの大部分は地質学的に最近の火山活動によって形成された非常に新しい火山である。
約2万5千年前、姶良カルデラで発生した入戸火砕流と姶良Tn火山灰の噴出を伴う巨大噴火(姶良大噴火)によって現在の鹿児島湾の形が出来上がった(右衛星写真の鹿児島湾奥部、桜島より上の部分に相当)。桜島はこの巨大カルデラ噴火の後に火山活動を始めた。約2万2千年前、鹿児島湾内の海底火山として活動が始まり、安山岩やデイサイト質の溶岩を流出しながら大きな火山島を形成していった。約1万1千年前には北岳が海上に姿を現し、この頃に北岳から噴出した火山灰の地層は九州南部に広がっておりサツマ火山灰と呼ばれている。噴火活動は約4千年前から南岳に移行した。
有史以降の歴史[]
30回以上の噴火が記録に残されており、特に文明、安永、大正の3回が大きな噴火であった。『薩藩地理拾遺集』においては708年(和銅元年)、『薩藩名勝考』においては716年(霊亀2年)、『神代皇帝記』においては717年(養老元年)、『麑藩名勝考』や『三国名勝図会』においては718年(養老2年)に桜島が湧出したとの説が紹介されている。現実的にはこの年代に桜島が形成されたとは考えられず、これらの説は桜島付近で起きた噴火活動を指すものとされる。『続日本紀』の764年(天平宝字8年)の箇所に「麑嶋」(鹿児島)における噴火の記述があり、鹿児島湾海上において大音響や火焔とともに3つの島が生成したとされている。島の詳細な位置は明確になっていないが桜島に関連した火山活動の一つと考えられており、「麑嶋」(鹿児島)が桜島を指しているとする説と、広く薩摩国と大隅国の境界地域を指しているとする説がある[5]。931年頃(承平年間)に書かれた『和名類聚抄』において、大隅国囎唹郡に「志摩」(島)という地名が登場する。これが具体的な地域としての桜島を指した最古の文献である[6]。
明治期に東桜島村と西桜島村に分かれる。東桜島村は1950年(昭和25年)10月に鹿児島市に合併され、西桜島村は後に桜島町と改名するが、2004年(平成16年)11月に鹿児島市に合併され現在に至る。
文明大噴火[]
1468年(応仁2年)に噴火したが被害の記録はない。その3年後、1471年(文明3年)9月12日に大噴火が起こり、北岳の北東山腹から溶岩(北側の文明溶岩)が流出し、死者多数の記録がある。2年後の1473年にも噴火があり、続いて1475年(文明7年)8月15日には桜島南西部で噴火が起こり溶岩(南側の文明溶岩)が流出した。さらに翌1476年(文明8年)9月12日には桜島南西部で再び噴火が起こり、死者多数を出し、沖小島と烏島が形成された。
1509年6月2日(永正6年5月15日)、福昌寺の僧天祐が南岳山頂に鎮火を祈願する真鍮の鉾を立てた。この鉾は後に風雨のために折損したため1744年11月27日(延享元年10月24日)に銅の鉾として再建されている。戦国時代において桜島は島津氏の領地となっており、鹿児島湾を挟んで対峙していた肝付氏との争いの最前線として各所に城塞が築かれ兵が配置されていた。1571年12月6日(元亀2年11月20日)には肝付氏、禰寝氏、伊東氏の連合軍が100艘余りの船で桜島の各所を攻撃した。これに対して島津家久は横山、脇、瀬戸などに陣を構えて応戦している[1]。
安永大噴火[]
1779年11月7日(安永8年9月29日)の夕方から地震が頻発し、翌11月8日(10月1日)の朝から井戸水が沸き立ったり海面が変色するなどの異変が観察された。正午頃には南岳山頂付近で白煙が目撃されている。昼過ぎに桜島南部から大噴火が始まり、その直後に桜島北東部からも噴火が始まった。夕方には南側火口付近から火砕流が流れ下った。夕方から翌朝にかけて大量の軽石や火山灰を噴出し、江戸や長崎でも降灰があった。11月9日(10月2日)には北岳の北東部山腹および南岳の南側山腹から溶岩の流出が始まり、翌11月10日(10月3日)には海岸に達した(安永溶岩)。翌年1780年8月6日(安永9年7月6日)には桜島北東海上で海底噴火が発生、続いて1781年4月11日(安永10年3月18日)にもほぼ同じ場所で海底噴火およびそれに伴う津波が発生し被害が報告されている。一連の海底火山活動によって桜島北東海上に燃島、硫黄島、猪ノ子島など6つの火山島が形成され安永諸島と名付けられた。島々のうちいくつかは間もなく水没したが、最も大きい燃島(現・新島)には1800年(寛政12年)から人が住むようになった。噴火後に鹿児島湾北部沿岸の海水面が1.5 - 1.8メートル上昇したという記録があり、噴火に伴う地盤の沈降が起きたと考えられている。一連の火山活動による噴出物量は溶岩が約1.7立方キロメートル、軽石が約0.4立方キロメートルにのぼった。薩摩藩の報告によると死者153名、農業被害は石高換算で合計2万3千石以上になった。[7][5]
幕末においては瀬戸に造船所が設置され、日本で最初の蒸気船「雲行丸」(江戸で建造との説あり)が建造された。1863年(文久3年)の薩英戦争では、袴腰(横山)と燃崎に砲台が築かれた[8]。
大正大噴火[]
概要[]
1914年(大正3年)1月12日に噴火が始まり、その後約1ヶ月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され多量の溶岩が流出した。一連の噴火によって死者58名を出した。流出した溶岩の体積は約1.5km3、溶岩に覆われた面積は約9.2km2、溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡(距離最大400m最深部100m)で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになった。また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測され、軽石等を含む降下物の体積は約0.6km3、溶岩を含めた噴出物総量は約2km3(約32億トン、東京ドーム約1,600個分)に達した。噴火によって桜島の地盤が最大約1.5m沈降したことが噴火後の水準点測量によって確認された。この現象は桜島北側の海上を中心とした同心円状に広がっており、この中心部の直下、深さ約10kmの地中にマグマが蓄積されていたことを示している[9]。
噴火の前兆[]
1913年(大正2年)6月29日から30日にかけて伊集院町(現日置市)を震源として発生した弱い地震が最初の前兆現象であった。同年12月下旬には井戸水の水位が変化したり、火山ガスによる中毒が原因と考えられる死者が出るなどの異変が発生した。12月24日には桜島東側海域の生け簀で魚やエビの大量死があり、海水温が上昇しているという指摘もあった。
翌1914年(大正3年)1月に入ると桜島東北部で地面の温度が上昇し、冬期にも拘わらずヘビ、カエル、トカゲなどが活動している様子が目撃されている。1月10日には鹿児島市付近を震源とする弱い地震が発生し、翌11日にかけて弱い地震が頻発するようになった。噴火開始まで微小地震が400回以上、弱震が33回観測されている。
1月11日には山頂付近で岩石の崩落に伴う地鳴りが多発し、山腹において薄い白煙が立ちのぼる様子も観察されている。また、海岸のいたるところで温水や冷水が湧き出たり、海岸近くの温泉で臭気を発する泥水が湧いたりする現象も報告されている。噴火開始当日の1月12日午前8時から10時にかけて、桜島中腹からキノコ雲状の白煙が沸き出す様子が目撃されている。
噴火の経過[]
1914年(大正3年)1月12日午前10時5分、桜島西側中腹から黒い噴煙が上がり、その約5分後、大音響と共に大噴火が始まった。約10分後には桜島南東側中腹からも噴火が始まった。間もなく噴煙は上空3,000m以上に達し、岩石が高さ約1,000mまで吹き上げられた。午後になると噴煙は上空10,000m以上に達し桜島全体が黒雲に覆われた。大音響や空振を伴い断続的に爆発が繰り返された。午後6時30分には噴火に伴うマグニチュード7.1の強い地震(桜島地震)が発生し、対岸の鹿児島市内でも石垣や家屋が倒壊するなどの被害があった。
1月13日午前1時頃、爆発はピークに達した。噴出した高温の火山弾によって島内各所で火災が発生し、大量の軽石が島内及び海上に降下し、大量の火山灰が風下の大隅半島などに降り積もった。午後5時40分に噴火口から火焔が上っている様子が観察され、午後8時14分には火口から火柱が立ち火砕流が発生し、桜島西北部にあった小池、赤生原、武の各集落がこの火砕流によって全焼した。午後8時30分に火口から溶岩が流出していることが確認された。桜島南東側の火口からも溶岩が流出した。
1月15日、赤水と横山の集落が桜島西側を流下した溶岩に覆われた。この溶岩流は1月16日には海岸に達し、1月18日には当時海上にあった烏島が溶岩に包囲された。一方、桜島南東側の火口から流下した溶岩も海岸に達し、噴火前には72mもの深さがあった瀬戸海峡も埋め立てられていった。こうして1月29日、桜島が大隅半島と陸続きになった。このとき瀬戸海峡付近の海水温は49℃に達した。溶岩の進行は2月上旬に停止したが、2月中旬には桜島東側の鍋山付近に新たな火口が形成され溶岩が流出した。1915年(大正4年)3月、有村付近に達した溶岩の末端部において二次溶岩の流出があった。
噴火活動は1916年(大正5年)にほぼ終息した。
避難の状況[]
噴火の前兆となる現象が頻発し始めた1月10日夜から住民の間で不安が広がり、地元の行政関係者が鹿児島測候所(現・鹿児島地方気象台)に問い合わせたところ、地震については震源が吉野付近(鹿児島市北部)であり白煙については単なる雲であるとし、桜島には異変がなく避難の必要はないとの回答であった。しかしながら1月11日になると住民の中に避難を始める者が出始めた。桜島東部の黒神、瀬戸、脇では地域の青年会が中心となり女性、子供、老人を優先に牛根村、垂水村(現垂水市)方面への避難が進められた。また、桜島北部の西道、松浦においても青年会が中心となり鹿児島湾北部の重富村(現姶良町)、加治木町、福山村(現霧島市)方面への避難が進められた。一方、鹿児島市街地に近い桜島西部の横山周辺は測候所の見解を信頼する者が多かったため避難が遅れ、1月12日午前の噴火開始直後から海岸部各所に避難しようとする住民が殺到し大混乱となった[10]。しかし、西桜島村の死者は3名のみであった。
桜島東側の瀬戸海峡は海面に浮かんだ軽石の層が厚さ1m以上にもなり、船による避難は困難を極めた。対岸の鹿児島市は鹿児島湾内に停泊していた船舶を緊急に徴用して救護船としたが間に合わず、東桜島村では混乱によって海岸から転落する者や泳いで対岸に渡ろうとして凍死したり溺死したりする者が相次いだ。この教訓から、鹿児島市立東桜島小学校にある桜島爆発記念碑には「住民は理論を信頼せず異変を見つけたら未然に避難の用意をすることが肝要である」との記述が残されており、「科学不信の碑」とも呼ばれている。
桜島対岸の鹿児島市内においては1月12日夕刻の地震発生以降、津波襲来や毒ガス発生の流言が広がり、市外へ避難しようとする人々が続出した。鹿児島駅や武駅(現鹿児島中央駅)には避難を急ぐ人々が集まり騒然となった。市内の混乱は1月17日頃まで続いた。
噴火の影響[]
噴火によって降り積もった火山灰は火砕流に襲われた赤生原付近や風下にあたった黒神と大隅半島の一部で最大1.5m以上、桜島の他の地域でも30cm以上の深さに達した。桜島島内の多くの農地が被害を受け、ミカン、ビワ、モモ、麦、大根などの農作物はほぼ全滅した。耕作が困難となった農地も多く、噴火以前は2万人以上であった島民の約3分の2が島外へ移住した。移住先は種子島、大隅半島、宮崎県を中心とした日本各地のほか、朝鮮半島に移住する者もあった[5]。
災害復興のために桜島と鹿児島市街地を結ぶ定期航路を望む声が上がり、1934年(昭和9年)11月19日に当時の西桜島村が村営定期船の運航を開始した。その後の桜島フェリーである[6]。
昭和噴火[]
大正大噴火が終息した後しばらく穏やかな状態となっていたが、1935年(昭和10年)、南岳東側山腹に新たな火口が形成され断続的に噴火を繰り返すようになった。1939年(昭和14年)11月の噴火において熱雲(火砕流)が観察されている。
1946年(昭和21年)1月から爆発が頻発するようになり同年3月9日に火口から溶岩の流下が始まった。大正大噴火とは異なり噴火前後の有感地震はほとんどなかった。3月11日夜から連続的に噴火するようになり、対岸の加治木町(後の姶良市)や国分町(後の霧島市国分)から火柱が観察されている。大量の火山灰を噴出し、牛根村(後の垂水市牛根)では3センチメートルの厚さに降り積もった。火山灰の影響で同年5月に持木・野尻地区でたびたび洪水が発生している[11]。
溶岩流は鍋山付近で南北に分流し北側は黒神地区の集落を埋めつつ4月5日に海岸に達した。南側は有村地区を通過し5月21日に海岸に達した。死者1名、噴出物総量は約1億立方メートルであった。この噴火は同年11月頃に終息したが、その後も散発的に噴火が起きている。
1955年以降[]
1955年(昭和30年)10月に南岳山頂火口で大量の噴石を噴出する爆発噴火があり、死者1名、負傷者11名を出した。これ以降、南岳山頂付近は立ち入り禁止となった。以後の噴火はそのほとんどが南岳山頂火口で起きている。噴火活動の再開を受けて1960年(昭和35年)に桜島火山観測所が開設された。1967年(昭和42年)8月の噴火において火砕流が発生するなど活発な噴火活動も見られたが、1960年を境にして爆発回数は減少に転じ、1969年(昭和44年)頃に収束している。
1970年代に入ると再び噴火活動が活発となり、1972年(昭和47年)10月2日午後10時19分に南岳山頂でやや大きな爆発噴火が発生した。噴出した高温の噴石によって多数の山火事が発生している。これをきっかけとして翌年に活動火山対策特別措置法が制定され、避難施設の整備、農林漁業被害への補助、降灰除去事業、土石流対策の砂防工事、火山観測や研究などの対策が強化されることになった[2]。1973年(昭和48年)以降、年間数十回から数百回程度の爆発を繰り返すようになり日常的に降灰が続いた。昼間でも薄暗くなることもあった。1974年(昭和49年)5月、1976年11月、1979年11月の噴火において火砕流が発生している。新たに降り積もった火山灰地は雨が降ると崩れやすく、1974年6月17日には第1古里川の砂防工事現場において土石流が発生し作業員2名が死亡し1名が行方不明となった。同年8月9日にも野尻川の砂防工事現場において土石流が発生し作業員とその家族を含め5名が死亡している。
噴火活動は1985年(昭和60年)にピークに達し、年間474回の爆発が観測され、爆発に伴う空振が福岡県飯塚市で観測されたこともあった。火山灰の噴出を繰り返し、鹿児島地方気象台における年間降灰量は1平方メートルあたり約16kgに達した。桜島島内では空振による住宅の窓ガラス破損や噴石による自動車の窓ガラス破損が多発し、鹿児島湾を挟んだ対岸の鹿児島市市街地においても降灰によって様々な被害が発生した。送電線を支えるがいしの絶縁不良による停電、道路においては降り積もった火山灰によるスリップ事故、鉄道においては架線の障害や線路のポイント故障による列車の遅れや運休、踏切の誤動作による交通事故、航空機においては操縦室の窓ガラスに傷が付く被害も報告されている。同年の火山灰による農作物の被害は約72億円に達した[2]。翌1986年(昭和61年)11月23日には桜島古里地区のホテルに直径約2m、重量約5トンの噴石が落下し建物の屋根と床を突き破り宿泊客と従業員の合わせて6名が負傷した。
1990年代に入ると爆発回数は減少傾向を示し、2003年(平成15年)から2006年(平成18年)にかけての爆発回数は年間十数回程度である。2006年6月7日に昭和噴火の火口跡付近において小規模な噴火があり、以降は昭和火口から断続的に噴火が起きるようになった。2009年から再び活動が活発化しており2010年8月現在で測候以来最多となる年700回を超えている。火口周辺へ立ち入る場合には最新の警戒情報を知っておくことが求められる。
活発化する桜島[]
最近活発化している。爆発的噴火は2009年548回、2010年は観測最多の896回だった。しかし降灰量は少ない。2010年現在、1914年の大正大噴火で下がった地盤1.5mのうち9割が回復している。桜島のすぐ南の鹿児島湾にある深さ10kmのマグマだまりから毎年0.01立方kmの供給があるためだ。
桜島と地層[]
桜島は比較的新しい時代において頻繁に噴火を繰り返してきたため、噴出物が積み重なった地層は考古学における鍵層として利用される。桜島を起源とする地層として17層が確認されており、新しい順にP1からP17の記号で表される。特にP13およびP14は上野原遺跡の年代測定において重要な役割を果たした[12]。比較的新しい噴火による噴出物はボラと呼ばれ、主として大隅半島に分布している。
- 桜島を起源とする地層の一覧
- P1(Sz-Ts): 大正ボラ。1914年(大正3年)の大正大噴火による噴出物。
- P2(Sz-An): 安永ボラ。1779年(安永8年)の安永大噴火による噴出物。
- P3(Sz-Bm): 1471年(文明3年)の文明大噴火による噴出物。
- P4: 764年(天平宝字8年)の噴火による噴出物と考えられている。
- P5
- P6
- P7: 約5000年前の噴火による噴出物。
- P8
- P9
- P10
- P11: 約7000年前の噴火による噴出物。
- P12
- P13: 約9500年前の噴火による噴出物。
- P14(Sz-S): 約1万1千年前、北岳の噴火による噴出物。桜島サツマ火山灰と呼ばれ半径約80kmの範囲に分布する。
- P15
- P16
- P17: 約2万2千年前の噴火による噴出物。
桜島の名称[]
桜島は古代において「鹿児島」と呼ばれていたとの説があるが確証はない。1334年(建武元年)頃の記録では「向嶋」と呼ばれており、「桜島」の名称が記録に現れるのは1476年(文明8年)以降である。その後しばらくの間、「向嶋」と「桜島」の名称が併存していたが、1698年(元禄11年)薩摩藩の通達によって桜島の名称に統一された。「向嶋」の名称は、東西南北どの方向から眺めてもこちらを向いているように見えることに由来する[6]。なお、御岳は「筑紫富士」とも呼ばれている。
「桜島」の名称の由来については、以下の3説がある。
- 島内に木花咲耶姫命を祭る神社が在ったので島を咲耶島と呼んでいたが、いつしか転訛して桜島となった。『麑藩名勝考』『三国名勝図会』
- 10世紀中頃に大隅守を勤めた桜島忠信の名に由来する。『麑藩名勝考』
- 海面に一葉の桜の花が浮かんで桜島ができたという伝説に由来する。『麑藩名勝考』
産業と生活[]
- 全島が火山噴出物で構成されているため生育に適する農作物は限られている。特産品として、かぶらを大きくしたような世界一大きい大根「桜島大根」と、世界一小さなみかん「桜島小みかん」が有名。
- 桜島の溶岩を利用した焼肉プレートが販売されている(注意:桜島は国立公園に指定されているため溶岩は許可がなければ持ち出しはできない)。また、土産物として小瓶に詰めた火山灰が売られている。
- 風によって火山灰が運ばれるため近隣住民にとって風向きの情報は重要であり、1983年(昭和58年)9月1日から電話による天気予報(177)で桜島上空の風向きに関する情報提供が始まった[2]。その後、鹿児島県内のテレビ・ラジオ放送の天気予報においても桜島上空の風向きの情報が流されるようになった。
- 鹿児島市では市街地を中心に、多くの学校のプールには降灰時にも使用できるよう、カーテン状の可動式の屋根が設置されている(好天時は屋根を開けて使用)。ただし、しばらくの間降灰が小康状態だったことと老朽化したことにより、撤去された学校もある。また、校舎には降灰時でも舎内の換気ができるように、廊下側の窓にフィルターが取り付けられており、教室内の換気扇には、降灰の逆流を防止するカバーが、換気扇の室外側についている。
- 大隅半島など降灰量の多い地域には、雨樋の無い家屋が散見される。灰が雨樋に詰まり雨水を吸収して固まると用を成さなくなるため、初めから設置していない。
- 降灰時は霧の中のようになり視界が数十mになる場合があり、自動車の場合ライトが必須になる。また、火山灰がフロントガラスに付着するがワイパーを作動させる速度を考慮しないと、ガラスに傷がつく場合がある。(また、特に降雨時の降灰の際は早めに、場合によってはウィンドウォッシャー併用で動かさないと危険な場合がある)
克灰袋[]
一定以上の降灰が確認されると役所から家庭に克灰袋が配布される[13]。家庭では降灰を克灰袋にいれ降灰指定置き場に置くと役所が回収する。 以前は「降灰袋」と書かれていたが、克服するという願いから現在は「克灰袋」と書かれている。
- 掃除などで集められた火山灰を廃棄する場合は、専用の袋に入れて指定場所に置かなければならない(右写真参照)。
交通[]
- 桜島へのアクセス
- 桜島と鹿児島市街地との間は24時間運航の鹿児島市営桜島フェリーによって結ばれている。大隅半島側の垂水市や霧島市との間には路線バスが運行されている。鹿児島市でありながら鹿児島市中心部とは海で隔てられているため、2000年頃に桜島大橋(仮称)が計画された。しかしながら、着工等の日取り等全く未定であり、頓挫している状態であったが、2010年に鹿児島県が「錦江湾(鹿児島湾)横断交通ネットワーク」についての基礎調査結果を発表し、「鹿児島 - 桜島」を中心に調査を進める予定である[14]。
- 鹿児島駅 -(徒歩約7分)- 鹿児島港桜島フェリーターミナル -(桜島フェリー)- 桜島港
- 国分駅 -(路線バス)- 桜島口
- 鹿児島空港 -(路線バス)- 桜島口
- 島内の交通
- 路線バス
- 桜島港 - 桜島口(南回り)
- 赤水 - 桜島港 - 白浜、白浜 - 黒神口(北回り) ※黒神口 - 桜島口は徒歩約5分
- 島内の観光名所を巡回する定期観光バスが運行されている。
防災[]
- 噴火警戒レベル
桜島は現在も活発な活動を続けており、状況の変化に応じた噴火警戒レベルが設定されている。最新の警戒レベルについては気象庁のウェブサイトで確認することができる[15]。
詳細は「噴火警戒レベル」を参照
- 最新の画像
- 気象庁のウェブサイトで最新の静止画像を確認することができる[16]。
- 避難訓練
- 大正大噴火発生日に因んだ毎年1月12日に桜島の噴火を想定した桜島からの避難訓練が行われている。この訓練には桜島フェリー等の船舶や海上保安庁の巡視船艇による海上脱出訓練等が含まれている。
- 噴石対策
- 主要な幹線道路沿いに噴石よけの避難壕が設置されている。
- 桜島島内配備の消防車両のうち、東桜島支所管内の消防団積載車には全車屋根の上に噴石よけの金網が張られウインドーガラスには庇が取り付けられている。鹿児島市消防局配置の車両にも同様の装備がある。
- 鹿児島市消防局管内では桜島配置の分遣隊(出張所)のみ防災車として四輪駆動車が配置されている。
- 土石流対策
- 平常時において桜島島内の河川はほとんど水が流れていないが、大雨が降るとたびたび土石流が発生し国道を遮断している。そのため主要な河川には土石流センサー(ワイヤー式とレーザー式)と監視カメラが設置され常時監視されている。センサー作動時には自動的にゲートが降りて通行止めになる。
桜島の姿[]
脚注[]
- ↑ 1.0 1.1 橋口兼古、五代秀堯、橋口兼柄 『三国名勝図会 巻之43』 1843年。 引用エラー: 無効な
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タグ; name "SNG"が異なる内容で複数回定義されています - ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 鹿児島県総務部消防防災課編 『桜島火山対策ハンドブック 改訂版』 鹿児島県、1989年。 引用エラー: 無効な
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タグ; name "HB"が異なる内容で複数回定義されています 引用エラー: 無効な<ref>
タグ; name "HB"が異なる内容で複数回定義されています - ↑ 大野照好 『かごしま文庫3 鹿児島の植物』 春苑堂出版、1992年、ISBN 4-915093-08-5。
- ↑ 田川日出夫 『かごしま文庫58 鹿児島の生態環境』 春苑堂出版、1999年、ISBN 4-915093-65-4。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 橋村健一 『かごしま文庫13 桜島大噴火』 春苑堂出版、1994年、ISBN 4-915093-19-0。 引用エラー: 無効な
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タグ; name "KB13"が異なる内容で複数回定義されています - ↑ 6.0 6.1 6.2 桜島町郷土誌編さん委員会編 『桜島町郷土誌』 横山金盛(桜島町長)、1988年。 引用エラー: 無効な
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タグ; name "Kyo"が異なる内容で複数回定義されています - ↑ 井村隆介 「史料からみた桜島火山安永噴火の推移」 『火山』 43巻、5号、373-383ページ、日本火山学会、1998年。
- ↑ 鹿児島市経済部観光課編 『桜島』 鹿児島市、1951年。
- ↑ 横山泉、荒牧重雄、中村一明編 『岩波講座 地球科学7 火山』 岩波書店、1982年。
- ↑ 九州鉄道管理局編 『大正三年桜島噴火記事』 1914年。
- ↑ 『南日本新聞』 1946年3月-5月
- ↑ 国分郷土誌編纂委員会編 『国分郷土誌 上巻』 国分市(現霧島市)、1997年。
- ↑ 鹿児島市、克灰袋の提供について
- ↑ 「鹿児島 - 桜島」案検討へ 鹿児島湾横断交通 - 南日本新聞2010年2月6日付
- ↑ 現在の噴火警戒レベル(気象庁ウェブサイト)
- ↑ 桜島の画像(気象庁ウェブサイト)
関連項目[]
参考文献[]
- 石川秀雄 『桜島 : 噴火と災害の歴史』 共立出版、1992年。ISBN 4-320-00882-0。
- 鹿児島県編 『櫻島大正噴火誌』 鹿児島県、1927年。
- 鹿児島県総務部消防防災課編 『桜島火山対策ハンドブック』 鹿児島県、1989年、改訂版。
- 桜島町郷土誌編さん委員会編 『桜島町郷土誌』 横山金盛(桜島町長)、1988年。
- 橋村健一 『桜島大噴火』 春苑堂出版〈かごしま文庫13〉、1994年。ISBN 4-915093-19-0。
外部リンク[]
- 安全対策(大隅河川国道事務所)
- 桜島国際火山砂防センターホームページ
- 気象庁桜島情報ページ
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