硫黄島 | |
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ファイル:Iwo-to landsat1999.jpg 衛星写真 | |
座標 |
北緯24度45分29秒 東経141度17分14秒 |
面積 | 23.16km² |
海岸線長 | 約22km |
最高標高 | 169m |
所在海域 | 太平洋(フィリピン海) |
所属国・地域 | 日本の旗 日本(東京都) |
硫黄島(いおうとう)は、小笠原諸島の南端近くに所在する、東西8 km、南北4 kmの島である。行政区分上は東京都小笠原村に属し、東京都区部からは、南方におよそ1,200km に位置する。島内の最高峰は、摺鉢山(標高169 m)であり、硫黄島は周囲の島々と合わせて火山列島(硫黄列島)と呼ばれる列島を形成している。
硫黄島は太平洋戦争の激戦地(硫黄島の戦い)として知られるが、現在は自衛隊の基地が置かれている。硫黄島へは旧島民らの慰霊や基地施設の工事などの例外を除いて、一般民間人の上陸は禁止されている。
地形[]
父島からは300 km、本州、グアム島、南鳥島、沖縄本島から、それぞれ1,200 kmから1,300 km程度のほぼ等距離に位置する。島の大半は標高100 m前後の台地状の比較的なだらかな地形であるが、島の最南端に位置する最高所(標高169 m)の摺鉢山(パイプ山)は、その名の通り「すり鉢」を伏せたような形状をしている。活火山の火山島であり、地熱が高く、島の至る所で温泉(硫黄泉)が湧き出し、噴出する硫黄ガス(二酸化硫黄等)により、硫黄独特の臭いが立ち込めている。数千年前の海底火山の活動で海底に火山砕屑物が堆積し、それが隆起して誕生した島であり、過去数百年間の平均で、世界的にも珍しい年間約25 cmもの速度で、現在も急速な隆起活動が続いている。島西方にある釜岩はかつては一つの独立した島であったが、この急速な隆起活動により現在は硫黄島と地続きとなっている。
2006年11月11日と12月27日に、気象庁が陸域観測技術衛星「だいち」の合成開口レーダーを使い硫黄島を観測したところ、11月11日観測時と比べ、島が20 cm隆起していることが発見され、火山噴火予知連絡会が硫黄島の隆起活動が活発化し小規模な水蒸気爆発の危険性を発表した([1])。
硫黄島の南北には、それぞれ北硫黄島と南硫黄島があり、この三島で火山列島(硫黄列島)を構成する。三島とも同じつくりの海底火山の島であり、その体積は富士山を遥かに凌ぐ。
島名について[]
島名は、島の至るところで見られる成分の硫黄に由来する。
硫黄島の呼称は、戦前は島民と主に陸軍の間では「いおうとう」、海軍の一部の間と明治時代作成の海図では「いおうじま」としていた[要出典]。アメリカ合衆国ではこの海図の表記に従い「Iwo Jima(イオージマ)」とし、終戦後、同島は米軍の統治下にあったことから「Iwo Jima」と呼称されていた。1968年に同島の施政権が日本国に返還された際に国土地理院発行の地形図上の呼称は「いおうとう」に戻されたが、1982年の地形図改訂の際に小笠原村は同島の呼称を「いおうじま」と東京都に報告、都ではこれに基づき「いおうじま」と公報したため、地形図においても「いおうじま」と呼称されるようになった。各報道機関でも同島を「いおうじま」と報道したことにより、2007年までは「いおうじま」と呼ばれることが多かった。
硫黄島の呼称を「いおうとう」に統一するようにという要望は、旧島民およびその子孫などの間から古くからあった。この要望に応え、2007年3月に小笠原村議会では、第1回議会定例会の最終日に、同島の呼称を「いおうとう」に統一する「硫黄島の呼称に関する決議案」を提出し採択された。これにより小笠原村では、1982年以降地形図の呼称を「いおうじま」としていた国土地理院へ、地名の修正を申請したところ、同院では海図の作成を担当する海上保安庁海洋情報部と「地名等の統一に関する連絡協議会」において協議の結果、2007年6月18日以降、村の申請(現地の呼び名を採用する原則)通り「いおうとう」と称するよう変更することとした。また、併せて北硫黄島は「きたいおうとう」に、南硫黄島は「みなみいおうとう」にそれぞれ変更され、火山(硫黄)列島の三島とも「島」の公式呼称はこれまでの「じま」から「とう」となった。国土地理院では、2007年9月発行の地形図から、ついで海上保安庁の発行する海図でも「いおうとう」が正式な表記となっている。
この変更直前まで国土地理院、海上保安庁の他、日本放送協会(NHK)でも「いおうじま」としていたが、小笠原村役場と『日本の島ガイドSHIMADAS』を発行する財団法人日本離島センターでは「いおうとう」としていた。
ただし、アメリカにおいては「Iwo Jima(イオージマ)」の名称が継続されている。これはアメリカ海兵隊においては第二次世界大戦中最大の激戦だった記念地として有名であるため、アメリカ退役軍人会が改名反対の声明を出したことによる。
歴史[]
1543年、ベルナルド・デ・ラ・トーレ (Bernardo de la Torre) 船長のスペイン船サン・ファン・デ・レトラン (San Juan de Letran) が発見した。
1779年にはジェームズ・クック率いるレゾリューションおよびディスカヴァリーにより、サルファーアイランドと命名された。
1887年、東京府による探査が行われた。
1889年6月、父島の住民田中栄次郎が、父島で建造した帆船南洋丸にて十余名とともに、鮫漁と硫黄採取を目的として入植し、硫黄島の開拓が開始された。(記録に残る初めての日本人の入植)
1891年9月9日、勅令により日本領土に編入。島名を「硫黄島」とし、東京府小笠原島庁所属とする。
1892年から本格的に硫黄採掘事業が開始された。
1923年、島嶼町村制が施行され、東京府小笠原支庁硫黄島村となった。
1940年4月には普通町村制に移行。当時の人口は1,051人。硫黄島村は1952年のサンフランシスコ講和条約で米国領となるまで続いた。なお、戦前の硫黄島は京橋区だったとする資料があるが、誤りである。
戦前は、小笠原諸島内でも有数の集落があった。1943年6月の調査によれば、硫黄島村の人口は192戸1,018人(男533人、女485人)である。島北部には元山部落、東部落、西部落、南部落、北部落、千鳥部落の6つの集落があり、元山部落には硫黄島尋常小学校と硫黄島神社が置かれ、島の中心となっていた。また、島には父島から派遣された警察官1名が駐在していた。
島外との交通手段は、月1回の郵便船で母島へ渡り、そこから船で東京へ向かうルートと、2ヶ月に1度の日本郵船の定期船「芝園丸」で東京へ直行するルートがあった。
島内の産業は、硫黄採取鉱業、サトウキビ、コカ、レモングラス等の栽培農業、近海沿岸漁業等で、これらの産業は硫黄島産業株式会社が取り仕切っており、島民の大半は同社に直接、間接的につながっていた。当時の島民の証言によれば、「きちんと稼げていた」とのことであり、絶海の孤島ではあったが、島民の経済状態は悪くなかったようである。なお、島内での穀物生産は困難のため、米は本土からの移入に頼っていた。
硫黄島南部は戦前から海軍省によって要塞地帯に指定され、一般島民の立ち入りが制限されていた。太平洋戦争が始まり、1944年に入ると大本営はマリアナ諸島の防備強化と合わせて小笠原諸島の防備強化を開始し、陸軍部隊(「伊支隊」指揮官:厚地兼彦大佐、4,883名)と海軍部隊(「硫黄島警備隊」指揮官:和智恒蔵中佐、1,362名)が硫黄島に進出した。この段階では島民も在島していたが、陸海軍部隊は上記要塞地帯に指定された島南部に展開したため、少数の島民が部隊に行商に出かけるほかは、部隊と島民の接触は少なかった。
参謀本部は1944年5月22日に、小笠原防備をさらに増強することを目的として第109師団を創設し、栗林忠道中将を師団長に任命し、栗林中将は6月8日に硫黄島に着任した。6月15日、アメリカ軍はサイパン島上陸とあわせて硫黄島を空襲、翌日の空襲と合わせて島内の各部落はほぼ焼失した。その後も空襲と艦砲射撃が続いたため、島民に対しては6月下旬に父島経由で内地へ疎開する命令が内示され、3回(7月1日、7月12日、7月14日)に分けて島民の疎開が行われ、軍に軍属として徴用された者(約230名)を除く全島民が硫黄島を離れ、島民が生活を営んだ硫黄島村の歴史は幕を閉じた。
その後、1945年2月から3月にかけて行われたこの島の攻防(硫黄島の戦い)で、日本軍2万129人が戦死、米軍2万8,686人の戦死傷者(戦死6,821名・戦傷2万1,865名)を出す大激戦が繰り広げられた。そして3月17日、硫黄島は米軍に占領された。摺鉢山に米軍歩兵によって星条旗を掲げる際に撮った写真は、米バージニア州アーリントン国立墓地(米国の戦没者専用墓地)にある「合衆国海兵隊記念碑」のモデルにもなっている。(詳細は硫黄島の戦いを参照)
終戦後、島はアメリカ合衆国の施政権のもとにおかれ、1960年代までアメリカ空軍基地として核兵器保管などに用いられた。1968年6月26日、小笠原諸島と共に日本に返還されたが、硫黄島村ではなく、小笠原村字硫黄島という扱いとなり、現在に至っている。
1985年2月19日、硫黄島の米軍上陸40年目に当たる日に、「名誉の再会」と呼ばれる行事が行われた。参加したのは硫黄島戦に参加した両軍の兵士、場所は米軍が上陸した二ッ根浜である。会場中央には両面に文が刻まれた石碑が建てられ、和文が刻まれた山側には日本人参加者が、英文が刻まれた海岸側には米国人参加者が整列した。除幕と献花が行われたあと、参加者たちは碑に向かって歩み寄り、握手・抱擁を交わし合った。その後、1995年3月には50周年記念、2000年3月には55周年の日米合同慰霊祭がこの碑の前で行われている。
2009年7月22日の日食では、鹿児島県のトカラ列島悪石島や奄美群島奄美大島など天候悪化により観測が難しかったが、硫黄島では天候良好で超高速インターネット衛星きずなを通じた映像中継を実施された。なお、船により硫黄島周辺に滞在しての日食ツアーも開催された。
現在の硫黄島[]
現在は海上自衛隊管理の航空基地が設置され、全島がその基地の敷地とされているため、一般民間人および自衛隊員以外の公務員は島に立ち入ることは原則禁止されている。例外的に立ち入りが許可されて島に常駐する民間人は、飛行場の整備・改修工事を行う東京防衛施設局職員やNTT社員、建設業者数社の作業員等である。本島は潮風や硫黄による侵食が激しいため、基地施設等の補修が常時行われており、作業に従事するこの建設業者の住宅施設が存在する。また、国土地理院と気象庁の職員が定期的に来島して火山観測を行っている。
隆起活動が激しいため、硫黄島に港を築港することができず、船積みのボートが着けられる程度の小さな波止場(桟橋)しか存在しない。その関係で大型船舶は少し沖合いに停泊せざるを得ず、航空機で運べないような重量物は、おおすみ型輸送艦を使い、艦載のLCACで海岸から少し内陸のところにある揚陸施設に揚陸させる。航空燃料や軽油などは、沖合いに停泊した民間タンカーから、揚陸施設へと長大ホースを伸ばして補給を行う。硫黄島への宅配便・郵便物は通常の硫黄島の住所を記載しても届かない(郵便事業株式会社においても「交通困難地」とされている。[2])。隊員の家族の仕送りや外部から業務用の資材や郵便物などは、自衛隊が指定した基地へ一括搬入することになる。
大戦中、米軍は不要となった揚陸艦を浜で自沈させ、接岸岸壁にしようとしたが、波浪のため破損し実用にならなかった。現在でも硫黄島南側の海岸には放棄された揚陸艦の残骸が残る。また、現在も島の地下には1万3千柱を超える戦死者の遺骨とともに、無数の不発弾が残され、この回収も困難な状況である。不発弾爆発の危険性から、自衛隊員でも立入が禁じられている地域も存在する。
大戦中に破壊された大砲や戦車の残骸、飛行場跡、地下壕跡、トーチカ跡等の戦争の痕跡が現在も数多く残っており、硫黄島の戦いで戦った兵士を慰霊、顕彰する施設、かつて旧島民が暮らしていた集落や墓地があったことを偲び、慰霊する施設も数多く設置されている。
硫黄島航空基地[]
詳細は「硫黄島航空基地」を参照
硫黄島航空基地(いおうとうこうくうきち、JMSDF Iwojima Air Base)は、硫黄島内にある海上自衛隊の飛行場。運営者は海上自衛隊であるが、航空自衛隊の航空機もこの基地を使用する。航空自衛隊における名称は硫黄島分屯基地。入間基地の分屯基地という扱いとされている。陸上自衛隊は部隊を派遣しているが、分屯地として扱われてはいない。基地にある滑走路は2650×60の1本のみだが、2650×30の平行誘導路が、トラブルによる主滑走路閉鎖時に離着陸の可能な緊急滑走路として整備されている。
硫黄島航空基地に勤務する自衛隊員等が常駐していることから硫黄島は有人島となっているが、所在する海上自衛隊員は神奈川県綾瀬市民、航空自衛隊員は埼玉県狭山市民で、硫黄島(東京都小笠原村)に住民登録はされていない。周囲に有人島が存在しないため、硫黄島通信所にてアメリカ海軍の空母艦載機による夜間離発着訓練(タッチアンドゴー)が行われているほか、航空自衛隊の各種実験飛行といった、日本本土では実施出来ない用途に使用出来る貴重な島である。日本で唯一、陸・海・空の3自衛隊の統合的作戦演習が可能な場所でもある。なお、防衛大学校の3学年秋季定期訓練において、本島を見学することがある。この時の往復にはC-1またはC-130を利用する。
島は東京とグアム島を結ぶ民間航空路下に存在するため、自衛隊専用飛行場にも拘らず国際航空運送協会の3レターコードが設定されている。実際、過去に一度だけ2003年3月30日にグアム発仙台行きのコンチネンタル航空931便(ボーイング737)がエンジン片方停止により緊急着陸している。
また、父島や母島から本土への患者緊急搬送時には、当該基地でヘリコプターから輸送機へと乗り換え搬送を実施する場合がある。
旧島民の帰島問題[]
既述した通り、一般民間人等の上陸は建設業者の関係者等以外原則禁止されているが、戦没者の慰霊祭が現地で開催される際には、旧島民や遺族、それに戦没者の遺族等の一般民間人の硫黄島上陸が許可されている。一般民間人が硫黄島に上陸出来るのは、この戦没者の慰霊祭の時のみに限られる。
慰霊祭のときは、小笠原諸島父島から、小笠原海運の貨客船「おがさわら丸」で島へ向かい、船積みの小型ボートで島に上陸するか、航空自衛隊機を使用して来島することになる。また、遺族からの要望で2007年3月6日の慰霊訪問以降は、民間旅客機によるチャーター便が運航されることになった。2007年の訪問では、JALがMD-90型旅客機を運用してチャーター便運航を実施したが、燃料補給が出来ないことから燃料を往復分積みこんだため、110名前後しか搭乗出来なかった。
現在、一部の旧島民および遺族は日本政府に対して基地敷地の一部返還と帰島を求めているが、政府ならびに防衛省はこの要望に反応を示していない。このため、未だ島民の帰島は実現していない。
なお、映画『硫黄島からの手紙』の一部シーンは島内で撮影されたが、これはアメリカ国防総省から防衛庁を通しての東京都の特別許可によるものである。
戦没者の遺骨帰還作業[]
引き続き硫黄島の戦いによる日本人戦没者の遺骨を収容、本土へ帰還させる課題が残されている。本土へ帰還した遺骨は現時点で約8千柱で、1万3千柱余りの遺骨は未だ硫黄島内地下に埋もれ残されたままである。予算確保の問題と作業員人員確保の問題、埋葬地等の特定作業、既述した通り無数に埋まる不発弾へ対処、噴出する高温・有毒な硫黄ガスへの対処等で、その収容作業は困難を極める作業となっている。
これまでの収容作業は、主に硫黄島協会や戦没者遺族等の民間NPO法人やボランティア等の手で行われていたが、2010年度国家予算では遺骨収容のための予算が初めて1億円を超えて計上され、2010年8月10日には現職首相の指示により、政府による「硫黄島からの遺骨帰還のための特命チーム」が設置された。今後はこれまでの遺族、関係者の証言等に加え、米国での資料調査により情報収集を行い、収容作業におけるNPO法人やボランティアからの協力の拡充、自衛隊との協力体制の拡充をし、自衛隊基地施設下をも含む全島における面的調査を強化することとしている。また、遺族者等の慰霊等のための渡航機会の拡充、インターネット等を活用した遺留品の公開を実施して戦争の悲惨さを広く知らしめるとともに、将来は硫黄島以外の戦域での遺骨帰還作業実施も予定されている。
なお、硫黄島で戦死した米軍兵の遺体の大半は、硫黄島の戦い後暫くは摺鉢山山麓を中心に墓地を造成し、柩一台一台の上に十字架を立てて手厚く埋葬されたが、現在はその埋葬された遺体は全て米国本土へと帰還を果たしている。
関連項目[]
- 北硫黄島
- 南硫黄島
- 小笠原諸島
- 火山列島
- 新硫黄島
- 硫黄島通信所(在日米軍施設)
- 硫黄島の戦い
- 硫黄島の星条旗
- イオー・ジマ(アメリカ海軍艦艇)
- 硫黄島ロランC主局
- 硫黄島の砂 - 1949年に製作されたアメリカ映画
- 硫黄島 (映画) - 1959年に製作された日活の映画で、宇野重吉監督、大坂志郎主演
- 父親たちの星条旗 - アメリカ側の視点から捉えた硫黄島の戦いを描いた映画作品
- 硫黄島からの手紙 - 日本側の視点から捉えた硫黄島の戦いを描いた映画作品
- 遠い島 (テレビ番組) - 朝日放送制作・77年度ギャラクシー大賞受賞、日米両国の遺族や元兵士の取材を基に製作
- 2009年7月22日の日食
外部リンク[]
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